2023年1月22日(日)のメッセージ
安息日の主
「安息日に律法で許されているのは、・・・命を救うことか、滅ぼすことか。」
(ルカによる福音書 6章9節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 伊藤真嗣
「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。」(1-2節)論点の焦点となったのは、「安息日問題」です。ファリサイ派の人たちは安息日にしてはならないことに細かい注意を払っていました。当時の安息日禁止規定は複雑多岐で、安息日の行動はがんじがらめに縛られていました。
「そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」」(5節)安息日とは何か。それは個人の都合ではなくて、安息日は主を礼拝する日です。そして私たちは罪を悔い改めて解放されて、神さまの日として共に礼拝を捧げる日です。
その宣言をしたある安息日に、イエスさまは手の萎えた人を癒されました。癒された病はいずれも慢性病であり、翌日に延ばしても良かったのに、あえて安息日に癒されたのです。イエスさまは禁止規定に堕していた安息日を、本来の「神さまが祝福される日」に戻そうとされていたのです。
イエスさまの教えの根本は、安息日論争からも明確なように、神のみ心に沿って生きることにありました。たとえどんなに貧しくても、神のみ心を知って喜び、敵さえも愛して生きるときに、神の国はその人のものとなります。それを可能にするのは十字架のイエス・キリストのみです。
イエスさまは安息日に労働を禁じることよりも神さまを礼拝することを強調し、人を訴えるのではなく人を癒やすことを教えられました。私たちも安息日、日曜日は人を東縛する日ではなく、人を労働から解放し、礼拝を通して喜び自由となり、「神と人とに仕えさせる日」、「神さまを祝福する日」となるのです。