2025年10月5日(日)のメッセージ
自分の十字架を負う
ーまことの命を得るために
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
(マルコによる福音書 8章34節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 伊藤真嗣
自民党の総裁選が近づきそれぞれの主張を展開していますが、日本でも最近、「日本人ファースト」という言葉が、政治や社会の中で頻繁に聞かれるようになりました。それは一見、自国や自民族を優先することは当然のように思えるかもしれません。しかし、その背後には、他者を排除し、異なる文化や背景を持つ人々を「よそ者」と見なす風潮が潜んでいないでしょうか。聖書は自分中心の生き方が変えられて、神と隣人を愛するように教えています。聖書はこうした分断や優越意識に対して、まったく異なるビジョンを示しています。そのような差別や排除ではなく、「交わり」に生きることです。私たちは違いを認め合い、違いを乗り越えて、共に生きるよう召されています。共に神の国を目指し、キリストの愛と平和を証しして歩む者でありたいと願います。
先週の宣教でペトロは、「あなたはメシアです!!」と、あんなに立派な信仰告白をしておきながら、事もあろうにイエスさまをたしなめるのです。「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(32)その言葉を聞いたイエスさまは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(23)と怒鳴られたのです。この時のペテロのイエスへの「メシア告白」には限界がありました。
自分が死ぬというのは、自分を否定して、自分のしたいことを止めて、自己抑制して、自分を卑下して…ということではありません。自己中心に生き、自分のために生きよう、自己満足させる生き方に死になさいということなのです。
罪の赦しと死への勝利がイエス・キリストのもとにある、これが「まことの命」です。
わたしたちは自分の命を捨てて、主イエスのもとにある、「まことの命」を求めていかなくてはならないのです。