2019年4月14日(日)のメッセージ
今は闇の時
~受難週を迎えて~
「それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
(ルカによる福音書22章52節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
「いつものように」とルカはオリーブ山での出来事を記します(39節)。通常ゲッセマネの園と呼ばれる所です。イエスさまはその日も変わらず祈るために「いつもの場所」に来られたのです(40節)。しかし主は知っておられました。その日がいつもの日ではなかったことを。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(42節)
迫りくる十字架を前に激しい苦悶の内に祈る主イエスの顔や体からは汗が血の滴りのように地面に落ちました。弟子たちはと言えば「悲しみの果てに眠り込んで」(45節)いました。彼らにはそれしかできなかったのです。
主イエスに最も近い存在だった12弟子の一人ユダが、やはりいつものように主に挨拶の接吻をしました。それが裏切りのしるし、逮捕の合図でした。神の子である主イエスが、誰一人味方する者もなく、裏切りと悪意に満ちた人々の中で立ち尽くします。それは罪に満ちた私たち人間の世界の現実、闇が支配するこの世の有様そのものです。
「ゲッセマネとは人間の罪の現実があらわになる場所のこと、ゲッセマネとはこの世のあらゆる場所で起こっている出来事」です。(越川弘英著「十字架の道、復活からの道」)
そしてその現実は他でもない私たち自身の中にもあるのです。
「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53節)。主イエスはただ独り十字架の道を進まれます。この世の闇の中で、弟子たちの罪を背負い、私たちの罪を背負って。しかし主イエスはただ定められた宿命の無力な犠牲者ではありません。暗闇に向かって自ら踏み出す主の歩みの一歩一歩が暗闇を打ち破ってゆきます。闇の極みである十字架を通し、十字架の向こうから復活の光を来たらせるために、主イエスは進みます。