メッセージ

2019年4月28日(日)のメッセージ

もう一度、やり直す

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。」
(ルカによる福音書24章30節~34節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

その村エマオはエルサレムから西北約11キロの所にあるとされています。十字架から三日目、クレオパという名の弟子ともう一人の弟子の二人連れは失意の内にこの道を足取り重く歩いていました。彼らは期待していました。ナザレのイエスこそイスラエルを解放してくださる方だと。しかしその願いは無残にも打ち砕かれました。権力者たちがイエスをとらえて十字架の死刑に処してしまったからです。彼らはまた言い難い空しさの内にありました。その日の朝仲間の女性たちが墓に行ったところイエスの遺体がなくなっており天使たちが「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。何と信じ難い知らせでしょう。
彼らに届いていた二つのメッセージ、つまり十字架と復活の知らせは、彼らの重い心をなお重くしたのです。深い敗北感と挫折感が彼らの目も心もふさいでしまっていたからです。

「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」
そこへ見知らぬ旅人が二人に歩み寄り、共に歩きながら問いかけました。問われるままに彼らは口を開き語り出します。ナザレのイエスにかけた期待と望みが十字架において破れ去ったこと、遺体が失われた墓で女性たちが天使から復活の知らせを告げられたこと。見知らぬ旅人の問いかけに答えながら、彼らはもう一度自分たちの身に起こった出来事を反芻(はんすう)したのです。そして旅人の質問は彼らを戻るべき出発点に呼び戻しました。
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(26節)

めざす村に着いた彼らはその旅人を強いて留まらせ共に食卓につきました。パンを取る手、賛美の祈りを唱える声、パンを裂いて渡す動作が、聖書の言葉と自分たちの体験と復活の知らせをひとつにしっかりと結びつけました。「イエスさまだ!」彼らの目は開かれ心は熱く燃やされました。「エルサレムに戻ろう!戻らなければ!」彼らが急ぎエルサレムに戻ると、そこにはやはり復活の主と出会った仲間たちがいて、互いに喜びを分かち合っていました。

主イエスと共に歩む時、失意と挫折の道はもう一度やり直すための新しい出発の道となるのです。主イエスは今日も私たちを招いておられます。「あなたの出発点に戻ってもう一度、やり直すのだ」と。

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