メッセージ

2019年5月5日(日)のメッセージ

復活の命の体

「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」
(ルカによる福音書24章38節~40節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

2019年度の私たち教会の主題標語は「キリストの福音を分かち合う~共に生きるために」です。主題聖句はイザヤ52章7節a「いかに美しいことか、山々を行き巡り良い知らせを伝える者の足は」です。この背景にはバビロン捕囚からの解放の喜びがあります。メールやSNSはおろか電話もない時代、良い知らせを運んだのは伝令です。山々を行き巡れば足は汚れて泥だらけになり、傷もいっぱい負ったことでしょう。しかしそのような足が美しい足だと呼ばれたのです。主がなさった救いと解放の良い知らせを運ぶ足だからです。

復活のイエスさまは肉体をもった存在として弟子たちの前にご自身を現わされました。単に主は弟子たちの心の中で生きているという話ではありません。復活のイエスさまは肉体を持ち、しかも十字架で傷を負った身体を持って弟子たちの前に現れたのです。主は亡霊かと恐れおののく彼らに「平和があるように」と呼びかけられました。そして彼らの目の前で焼いた魚を自ら食べられたのです!復活のイエスさまは身体を持っておられます。それも私たち人間と同じ、痛みもすれば傷つきもする身体です。復活の主は身体を持った主なのです。

私たちは時として自分の肉体を疎ましく思います。若い頃は自分の容貌や身体的特徴が受け入れられずに悩みます。病気がちな人は自分の体質をうらめしく思うこともあるでしょう。年を取れば心身の衰えに愕然とし焦りや孤独感、疎外感も感じます。でも私たちが生きているということは、そのように不都合な肉体を持って生きているということです。

同じように私たちが教会で出会う人々も身体を持った存在です。そこにはいろいろな違いがあります。気質の違い、年齢の違いが、生きて来た歴史の違い、求めるものや望むもの等の違いがあります。時には違いによるぶつかり合いも起こります。しかし違いを持つ私たちが主に在って互いをありのままに受け入れて愛する時、私たちは一つのキリストの身体となります。主は互いに愛し合いなさいと弟子たちに言われました。そして弟子の足を洗って、自分がしたようにあなたたちも互いに足を洗い合いなさいと言われました。泥まみれで汚れた足、傷ついた足、それらを互いに洗い合って私たちは主の愛に与り主の身体となるのです。

今日は第一週目、主の晩餐の日です。主の十字架の愛を覚えて晩餐に与りましょう。

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