2019年6月30日(日)のメッセージ
天下にこの名のほかは
「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
(使徒言行録4章10~12節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
名前、それは単なる記号や呼び名ではなく、存在そのものです。赤ちゃんは自分の名前が呼ばれて、自分というものを知り、自分が何者かという認識を形づくっていきます。
「名は体(たい)を表す」と格言にあります。名前とはその存在の実体そのものです。
歌舞伎役者は由緒ある名を襲名します。音楽家は誰それに師事したと名を経歴に記します。高級ブランドは高価だから人気があります。有名大学に合格者を多数送る学校の名は進学校としてブランドになります。名前を持つ、名前が上がる、名前を汚す等の表現もあります。私たちは数えきれない名前の権威と力に取り囲まれて生きています。しかし、私たちを真に救い得る名、それは天下に「この名」のほか人間に与えられていないと聖書は証言しています。
今朝の箇所は、ペトロや使徒たちが最高法院(サンヘドリン)の真ん中で権力者たちに尋問されている所です。理由はその前日、ペトロと使徒たちが午後3時の祈りのためにエルサレムの神殿に上った時に起こった出来事でした。神殿の「美しい門」のそばで生まれながらに足の不自由な一人の男が寝かされ、行きかう人の哀れみを乞うて何がしかの金銭を得ていました。彼は生まれてからずっとそのような人生しか知らない人でした。その彼がいつものように何かをもらえると思ってペトロとヨハネを見た時、ペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3:6)
それまでの40年間ただ他人に依存することでしか生きられなかったその人は、自ら立ち上がることができた大きな喜びを身体全体で表現し、躍り上がって神を賛美しながらペトロ等と共に神殿の境内に入って行ったのです。民衆にペトロは告げました。
「…この人をイエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(使徒言行録3:16)
神殿守衛長、サドカイ派の人々はペトロとヨハネ等を捕えて牢に入れました。翌日彼らは尋問を受けました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」(使徒言行録4:7)厳しく問いただされたペトロ等はこう答えました。
「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」(使徒言行録4:10)
そしてペトロは、彼ら権力者を含む人々が十字架につけて殺し、神が復活させられたイエス・キリストのみ名がこの人をいやし、立ち上がらせ、神を賛美する者へと変えた、ゆえにこれはイエス・キリストによる神の出来事なのだ、と証言したのです。この時から現代に至るまでキリスト教会はこのメッセージを語り伝え、語り継ぎ、語り続けています。
私たちは、「主イエスの名前を身に帯びた者」として生きています。それはイエス・キリストが人生の主であることを自分自身の体験として生きることです。どのような時も主イエスのみ名によって日々立ち上がり、歩くことです。人を、いやこの私を日々立ち上がらせ、歩き出させ、真に救い得る名は天下にイエスさまのお名前のほかにはない。この告白が私たち一人ひとりの告白となり、そのように生きる者とされたいと祈ります。