2019年7月7日(日)のメッセージ
共にみ言葉を開いて
「フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。…フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。」
(使徒言行録8章27~31節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
今朝の聖書箇所からまず伝わってくるのは遠くエチオピアからエルサレムまで礼拝にやって来たこの宦官の疎外感と孤独感です。彼は本国で女王の財産管理人という高い地位にいました。そして心から聖書の神を求めていました。しかし、はるばるやって来たエルサレムの神殿で彼が体験したのは自分が二重の意味で礼拝の場から疎外されている現実でした。
一つに彼は異邦人でした。「エチオピア」はもともとアイティオプス(日に焼けた)が語源で、そこにいる人々の肌の色を表す言葉です。彼は明らかに非ユダヤ人でした。異邦人は神殿では「異邦人の庭」以上に奥に進んで礼拝することは許されていませんでした。また彼は宦官でした。宦官とは宮廷に仕えるために男性の機能を奪われた人、去勢された男性でした。古代ヨーロッパやアジアで宦官はしばしば権力ある高い位を占めました。しかし律法は彼等を主の会衆に加わることができない者と規定していました(申命記23:2)。自国で高い地位にいても心に渇きを覚え、まことの神を礼拝したいと切に願ったこの人は、実際にエルサレムの神殿にやって来た時、礼拝者としては排除される存在の自分を発見したのです。
フィリポは天使に導かれてこの宦官と出会いました。彼の馬車に追いついて声をかけるように神さまに遣わされたのです。読んでいることが分かるかと問いかけるフィリポに宦官は答えます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」二人は馬車に一緒に座り共にみ言葉を開きました。そしてフィリポは「聖書のこの箇所から解きおこしてイエスについて福音を告げ知らせた」のです。人々に排除された苦難の僕の姿、それこそがイエス・キリストであることを彼は知りました。自分の疎外感や孤独感と寄り添って下さる方イエス・キリストを、彼は自分の救い主と信じ、バプテスマへと導かれたのです。
続くイザヤ56章3~7節に注目しましょう。ここには、人間の作った制度や儀式の限界を超えて、主がすべての人々を招いておられることが書かれています。人間がふさわしくないと排除する人々を主は招かれます。そして約束の民と同じように祝福に与らせて下さるのです。私たちは今朝、主イエスが十字架で裂かれた肉と流された血潮を記念する主の晩餐を行います。この月も、この主に従って日々を歩む決意と共に主の晩餐に与りましょう。