2019年7月21日(日)のメッセージ
礼拝中の大事件(?)
「パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて行った。『騒ぐな。まだ生きている。』そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」
(使徒言行録20章7~12節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
このエウティコ青年を巡る礼拝中の出来事は一体何の為に聖書に記録されているのでしょう。一見荒唐無稽で意味がないようにも思えます。ある人は言いました。「だから礼拝中に眠っちゃだめ、という教訓のため。」またある人は言いました。「説教が長々と続くのは良くないという戒めのため。」本当の理由は誰にも分かりません。
この出来事は使徒パウロが第三次宣教旅行でトロアスに寄港、七日間を過ごしてミレトスに向け再度出発する前夜のことでした。「パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた」(7節)とあるようにパウロの話は熱を帯び、人々もそれに引き込まれていました。しかしエウティコという青年は、おそらくは昼間の仕事の疲れも出たのでしょう、長々と続くパウロの説教の間に眠りこけてしまいました。窓に腰をかけていた彼は下に落ち、「もう死んでいた」(9節)と言われる状態になってしまったのです。一瞬で人々が凍りつく様子、あわてふためく状況が想像できます。
「騒ぐな。まだ生きている。」(10節)降りて行って。エウティコを抱きかかえたパウロはこう一言言いました。原語の意味は「恐れるな、命は彼の内にある」です。これはとても大きな一言ではないでしょうか。なぜなら、今、この日本社会においてはあらやる意味で「命」が危機にさらされている時代だからです。ニュースを見れば毎日のようにこの神奈川県で、また全国で起こっている理不尽かつ凄惨な事件が絶えません。その多くは最も親しく支え合うべき家族の中で起こっています。社会の格差が目に見えない不安や不満、抑圧となり、闇のように社会全体を包んでいます。私たちは死、絶望、喪失、恐怖の支配するこの世界にいるのです。そしてそのただ中に教会として立てられているのです。
教会は「命」を宣言します。「もう死んでいた」としか判断できない現実の中で「まだ命はある」と宣言するのです。エウのティコ青年の出来事は、「死から命への回復」を告げています。「命から死へ」向かう恐怖が渦巻くこの世界で、「死から命」の再生を告げるのです。
それは、パンを裂くという礼拝行為そのものがキリストの死に根差すもの。死から始まって命の希望に至っているからではないでしょうか。
この社会には今、大きな苦悩と嘆きと怒りが満ちています。そのような人々の苦悩と嘆きと怒りに黙って寄り添い、死を突き抜けて命を指し示すお方、イエス・キリストのゆえに、私たちは今週も与えられた生、命を慈しんで歩みます。それが私たちの慰めと希望です。