メッセージ

2019年8月4日(日)のメッセージ

支え合う教会と女性たち

「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために共に戦ってくれたのです。」
(フィリピの信徒への手紙4章2~3節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

フィリピ教会の成り立ちは使徒言行録16章に書かれています。パウロは最初アジア州への伝道を志しながらその道を閉ざされ、思いがけずマケドニア伝道に赴くことになりました。いわゆる《マケドニア人の叫び》です。パウロ一行はトロアスから船出しますが、最初に滞在した町、それがマケドニア州第一の都市フィリピでした。安息日にパウロ等が川岸にある祈り場に行くとそこには数人の女性たちがいてパウロの福音に熱心に耳を傾けました。その一人が紫布の商人で神をあがめるリディア、彼女とその家族はすぐに主イエスを信じバプテスマを受けました(使徒16:1~15)。

フィリピ伝道の初穂、それはマケドニア伝道の初穂で、つまり今のヨーロッパの最初のクリスチャンがリディアという女性だったわけです。この事実はフィリピ教会のその後の発展にも大きな影響を与えました。フィリピ教会には女性の指導者や奉仕者が多くいたのですが、それは当時の古代ヘレニズム(ギリシャ・ローマ)社会では稀有なことだったのです。

4章の冒頭でパウロは二人の女性指導者の名前を挙げ、教会全体で彼女たちを支えるようにと強く勧めています。エポディアとシンティケ、この二人はリディア同様、フィリピ教会の中心的な信徒でした。しかし二人の間には抗争関係があったのです。その理由を聖書は記していません。教会活動への意見の相違か、性格の違いが、またはその両方か。いずれにしても二人の反目はパウロが手紙で述べるほど、教会形成の大きな問題となっていたのです。
「わたしはユウオディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」、パウロはわざわざ別々に言っています。二人一緒に勧めたのなら「ユウオディアとシンティケに勧める」と一言で書けるわけです。それをこう書くのは別々に勧めたことが想像されます。それぞれの思いがバラバラであり、互いにそっぽを向き、そのため一人ずつ語る必要があったことの表れでしょう。聖書にこうした出来事が記されているのはいわば警告です。教会においては当時も今もこのようなことが絶えず起こり得るからです、女性の間に限りません。男性同士でも同じです。だから皆が心せよ、とパウロは警告しているのです。

次の「なお、真実な協力者よ、あなたにもお願いします。二人の婦人を支えてあげてください」は「伏して頼む・どうか二人をがっちりつかんでやってくれ」という意味の懇願です。二人は福音のためにパウロと共に戦ってくれた人々だから、二人の和解のためには仲を取り継ぐ仲介者が必要だ、教会全体の祈りも必要だ、とパウロは呼びかけているのです。「『命の書』に名を記されている」(3節)とは「神のものとして神に憶えられている」という意味です。教会は神のもの、一人ひとりも神のもの、というパウロの教会への愛が伝わってきます。二人を支えて祈ること、それによって教会はますますイエスさまの体なる教会とされていくことをパウロはフィリピ教会に訴えているのです。

私はいつもこの箇所を読むたび思います。エポディアとシンティケはその後和解したのでしょうか?聖書には書いていません。和解したかもしれません。そう思いたいです。
しかし一方、すぐには和解できなかったかもしれないとも思います。少なくともパウロが生きている間は適わず、ずいぶんとあとになってからやっと和解したかもしれません。それもありうることです。教会の抱える問題の多くはすぐにはハッピーエンドにならないからです。
そう考える時、このフィリピ4:2~3に続く4:4以下が非常に興味深く思えてこないでしょうか。「主において喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」

エポディアとシンティケの和解をまだ見ているわけではない。もう和解されたから、ではない。問題は問題としてそこにある。しかし、いやだからこそ、喜びなさいとパウロは勧めるのです。「どんなことでも思い煩うのをやめなさい。何事につけ、感謝と願いを~和解への願いを~ささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(4:6~7)

キリスト者の生き方とは、実はこれではないでしょうか。抱える問題がなくなったから、解決したから喜ぶのではない。問題がある。解決も見えない。しかしそのただ中で神に願い、祈り求める。そして神ご自身の平和をいただき、その平和の内にまだ見ぬ喜びを先取りしながら生きる。なぜなら、お互いは一人ひとりが神のもの、神に憶えられている者たちだから。パウロはそのようなキリスト者の生き方、また教会の交わりを夢見ていたのではないでしょうか。その意味で教会は、いまだならぬ種々の問題の解決を神に祈り求め、神の平和に守られながら世にあって平和を実現する者として生きる群れです。それゆえにイエスさまの教会は、人々とその問題とを抱えながら、支え合い祈り合って礼拝し続けるのです。

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