2019年8月11日(日)のメッセージ
苦難と希望の共同体
~平和礼拝~
「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」
(ペトロの手紙一3章13~16節a:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
はじめに
ペトロの手紙は、初代教会が厳しい迫害の中にあった中で書かれています。当時キリスト教はいわば生まれたての「新興宗教」のようなものであり、ユダヤ教徒や他の異教徒から種々の迫害を受けていました。そのため、ペトロの手紙には「今しばらくの間、試練に悩まねばならないが」(1:6)、とか、「異教徒の間で立派に生活しなさい」(2:12)、等の勧めが随所に見られます。今朝の箇所でも「義のために苦しむ」ことが述べられています。キリストを主と信じるという生き方のゆえに迫害をうけること、これを著者は「義のために苦しみを受ける」と言っています。今朝は神を信じる者は世にあってどのように生きることが求められているか、8月の大切なテーマである「平和」との関連で共に考えたいと思います。
主イエスご自身、山上の説教でこうおっしゃいました。
「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:10)
「幸い」とはいわゆる「順調でハッピーな」状態ではなく、神の祝福のもとにある、神の力がある、というのがもともとの意味です。元来、苦しむことは神の祝福とは正反対、つまり神から離れてしまった状態、呪いの事柄だと考えられてきました。しかし苦しむことは、しかも神の義(正しさ)のゆえに苦しむことは、神の力にあずかることなのだと著者は言います。なぜでしょう。それは、イエスさまという方が、そのように生きられた方だからです。
「正しい方が正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」(3:18)
キリスト者として生きること、そして福音に忠実に生きようとする者には必ず世からの軋轢があり世との摩擦が生じます。しかし、キリスト者であるがゆえに受ける苦しみは不幸ではなく、幸いなのです。
それでは、私たちはキリスト者として、どのような希望を持っているのでしょうか。
何が私たちの希望なのでしょうか。
私たちの世の中を振り返ってみると、まさに希望なき時代です。権力と財力のある人々が特権を享受している格差社会、不条理で理不尽な事件が頻発する社会。そこでは、一体、何が希望となりえるのでしょうか?
本日は「平和礼拝」です。先週6日と9日はそれぞれ広島と長崎に原爆が投下されてから74年を覚える日でした。広島教会は被爆60年にあたる去る2005年(14年前)、10名の教会員の証しを「語り継ぐー私の被爆体験―」という冊子にまとめました。今年宣教100年を迎えるにあたり英語版も作られました。それを読むと改めて被爆という経験がどれほど筆舌に尽くし難い悲惨な体験であるかが胸に迫ってきます。
体験集の執筆者のお一人Mさんは、人間同士は自己中心性のために絶対に愛し合うことはできない。イエスさまがそこにいて助けてくださらないと愛せないと書いておられます。つまり、私たちの希望はイエス・キリスト、正しくない者ために苦しまれた正しい人イエス・キリストにあるのです。
私たち教会は、その意味で、イエス・キリストにある苦難と希望の共同体です。
そして私たちは、真の平和はキリストにあることを告白します。私たち教会はキリストを宣教することにより、苦難と希望を証しする共同体なのです。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2:14)