2019年8月18日(日)のメッセージ
喜ぶ者と共に喜び、
泣く者と共に泣く
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
(ローマの信徒への手紙12章14~15節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
私たちは今年の年間主題標語を「キリストの福音を分かち合う~共に生きるために」と しています。今朝の聖書箇所はこの「共に生きること」について使徒パウロが述べている勧めの言葉です。
1)偽りのない愛とは(純粋なアガペーとは)
「愛には偽りがあってはなりません」とまずパウロは語ります。ここは原文では偽りという言葉は直接にはなく、「愛(アガペー)を純粋・誠実であらしめなさい」という勧めです。
そして、愛アガペーを純粋に誠実にするとは、以下のようにしていくことだ、と言っているわけです。
続く14節までの文章の構造は「○○しつつ、しつつ、」と分詞形が続きます(先週の東京バプテスト神学校の夏期公開講座の青野太潮先生の講義で教えていただきました)。つまり、「不断に罪を憎悪しつつ、善に結びつきつつ、・・・尊敬をもって互いを優先させつつ、希望において喜びつつ、艱難において忍耐しつつ、祈りにおいて専念しつつ、聖徒たちの必要を共有しつつ、旅人をもてなすことを追い求めつつ・・・」という表現をずっとして、14節でその連続を絶ち切って、命令形に変わる。「祝福しなさい(迫害する者を)」、「そして呪ってはならない」となるのです。ちなみに、「祝福せよ、呪ってはならない」は、パウロがイエスさまの生の言葉をそのまま思い出して使っている、と考えられるそうです。
2)喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く
これこそがクリスチャンラヴ、パウロはそう言います。
私は二十代半ばで信仰者となりました。それ以前クリスチャンの友だちが時々ちょっとしたトラクトをくれたのですが、その一つに「生活の処方箋」という小冊子がありました。いわば現代の「箴言」です。おもしろくてよく読みました。中にこのような一文がありました。
「心の近視」
人がほめられると自分がけなされたように思う人。
人が幸福になるとその分自分の幸福が減ると思う人。
人をこきおろした時ほど自分をえらいと思う人。
そして・・・
これら三つが自分には関係ないと思う人、これが最も重症です。」(「生活の処方箋」第二集、千代崎秀雄著)
私は当時、へー、クリスチャンの人はこう言う風に考えるのか、と感心したものです。
そして今自分が信仰者となっているわけですが、この「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」が実践できているかというと、やはり、できていないことがほとんどだと思うのです。
先週13日(火)、私は神奈川連合社会部主催の寿町フィールドスタディに行って非常に貴重な学びをしました。寿町は日雇い労働者の人々が住む宿屋が密集したところです。その人々の中には仕事にあぶれれば路上生活者、いわゆるホームレス状態になってしまう人たちもいて、そのような人々のための炊き出しや生活支援をしているKさんという方のお話を聞きました。Kさんは言われました。「路上生活者はひどい偏見や差別にさらされているが、ホームレスの状態は決して本人たちのせいではない。この世の中の仕組みではもともと限られた人たちだけしか仕事にあずかれず、一定の人は必ず仕事にあぶれてしまう、はじき出されてしまう、いわば椅子取りゲームのような構造がある。だからホームレスの問題はその人の『生存権・基本的人権の問題』として社会全体が考えるべきであって決して個人的な怠惰や資質に帰されてはならない課題である。ましてやいわれのない偏見や無知による差別・攻撃の対象になるなどあってはならないことである」と。
これを聞いて私自身、数年前、旧会堂時代の経験を思い出しました。ある夏ホームレスの女性が知らないうちに旧文庫室から会堂に夜入りこみ、数晩寝泊りしていたのです。最終的にはその女性に直接、ここで寝泊まりは困りますと伝えたわけですが、しかし、私自身の中にこうした人々に対する嫌悪感が正直あったのです。だから体裁よく、ただ、「追い出してしまった」のです。しかし、今回寿町に行ってお話を聞き、ああもう少しその方の立場に立った対応ができたはずだ、すべきだった、と痛みをもって思いました。
パウロはここで「愛(アガペー)の実践」の相手を教会の交わりから始めて広くさまざまな人々へと広げていっています。「兄弟・姉妹」(10節)から「あなたがたを迫害する者」(14節)へ、そして「身分の低い人々」(16節)へ、さらには「だれに対しても」、「すべての人の前で」(17節)、「すべての人と。」(18節)これは、私たちが神さまに愛されている者として生きることは、このように教会から社会へと広がっていくことだと言っているのだと思うのです。
3)神さまの取り扱いに委ねる
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える衰微を彼の頭に摘むことになる」(20節)
ここは箴言25:21の引用ですが難解な箇所、おかしな表現です。原語は「火の石炭」だそうです。ある訳には「(敵を愛し善を行うことで)相手は恥ずかしく思い、火の石炭のように真っ赤になるだろう」とありました。いずれにしても、その意味は、次に続く「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)につながる内容であり、自分で復習をするのではなく神さまが、神さまの時に、神さまの方法でその相手を取り扱われることにお任せしなさい、と勧めている言葉なのです。それは、人間の私たちの側の行動で言えば、「憎しみと復讐の連鎖は私たちが断ち切る」ということです。
私たちは神の愛(アガペー)に生きます。敵のような人でも祝福し、呪いません。だから、相手が喜べば共に喜ぶ。泣けば共に泣くのです。悪に悪をもって復讐をするのではなく、すべての人に対して善を行います。キリストが示されたように愛に生きる生き方、それはこの世界の憎しみと復讐の連鎖を断ち切る生き方です。神さまは私たちにそのように生きることを求めておられます。