メッセージ

2019年9月1日(日)のメッセージ

み言葉を行う人になる

「…だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけで終わる者になってはいけません。」
(ヤコブの手紙1章21~22節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

ヤコブの手紙は著者が特定されていません。主の兄弟でエルサレム教会の重鎮の一人だったヤコブが書いたとも言われますが不明です。いずれにしてもこの書が扱っているテーマは、「行き過ぎた自由」の問題です。つまり「私たちはイエスさまによって罪ゆるされて自由になった。だからそのままでいい、ありのままでいい」という考え方が行き過ぎてしまった人々、つまり神さまに従うよりもこの世の価値観を重視して信仰者のあり方を見失ってしまっている人々に対し書かれた手紙だということです。宗教改革者ルターはヤコブ書を「藁の書簡」(価値の低い書)と呼びました。使徒パウロが強調した「信仰義認論」、すなわち人が救われるのは信仰であって行いではない、という考え方の正反対を強調しているように読めるからです。しかし実際は、ヤコブの手紙は私たちすべてにとって重要な警告を含んでいる実際的な勧めの書なのです。

実際的な勧め①「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにする。」
→我々の現実はこの逆です。「話すのに早く、聞くのに遅く、怒るのに早い」のです。
→人の怒りは神の義を実現しないのです。怒る時我々を支配するはカッとする感情、激情で、それは結局は自分の思いに従うことです。怒る時私たちは自分でも思いもよらぬ言葉を吐いたり行動を起こしたりしがちです。アンガー・コントロール(怒りの制御)はとても重要です。信仰者は自分の思いではなく神さまのみ言葉に従います。

実際的な勧め②「み言葉を行う人になる。」
→自分の思いに従うのではなく神さまのみ言葉に従うとはどういうことでしょうか。
→著者は鏡の比喩を用います。鏡を除いて自分の姿を見る。髪の毛の寝癖、顔のよごれ、服のボタンのかけ違い、どれも気づけば直すことができます。しかし鏡を見ただけで 何もしなければ、鏡を見る前と何ひとつ変わりません。 →み言葉を聞いて行わない人も同じです。み言葉を聞いて忘れる人は何も変わりません。
そうであってはなりません。「(欲望からの)自由をもたらす完全な律法」とは神のみ 言葉です。鏡の中の自分をしっかり見るようにみ言葉にじっと目を注ぎ、それを実践す るならば、行う人となります。それは神さまに祝された(幸いな)生き方です。

実際的な勧め③「舌を制し、貧しい人に配慮し、世の汚れに染まらず自分を守る。」
→これらの点については3章以下で順次展開されています。
舌の持つ恐ろしさと舌を制御することの重要さは3章全体、特に1~12節で。
→貧しい人、社会的に弱い立場に置かれた人々との関係は2:章全体で。 →世の汚れに染まらないために神さまに服従する生き方の実際は4章全体で、それぞれ取り上げられています。

先日私たちの教会員である姉妹Mさんが101才で天に召されました。Mさんの愛唱聖句は詩編23編と第一テサロニケ5:16~18でした。Mさんご自身、主と共に生き、祈りを実践する方でした。高齢者ホームに入られてからお見舞いに伺うといつも必ずご自分から祈られました。起き上がれる時はきちんと起き上がって、寝床に伏す時間が多くなると「神さまに申し訳ないけれど」と言いながら寝床の中で、教会のため、牧師のため、よく祈って下さいました。私たちはMさんのために祈る以上に、Mさんのお祈りによって支えられていたのです。

み言葉を行うことは楽ではありません。祈ること一つ取っても、行おうとすれば必ず何らかの障害が私たちの内から外から起こります。挫折もたびたび生じます。しかしそれらを通りつつ「つねに」「絶えず」祈り続けること、それがみ言葉を行う人として生きることです。

使徒パウロはガラテヤ書でこう言いました。
「あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤ5:13~14)

私たちはみ言葉を行う人になりたいものです。聞くだけで終わるのではなく、行う人へと変えられてゆきたいと願います。そして愛の実践を伴う信仰を生きる人でありたいのです。

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