2019年9月8日(日)のメッセージ
皆がイエスさまのものだから
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
(ローマの信徒への手紙14章7~9節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
教会にはいろいろな人がいます。性格も育ちも好みも生活環境も全部違います。それぞれの違いはその人の独自性でもありとても貴重です。しかし一緒に教会生活をする中ではそれらの違いが問題となることがしばしば起こります。今日の聖書、使徒パウロがローマの教会の人々に宛てた手紙にもそのことが書かれています。現代の私たちにとってもまさに教会の課題です。
「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)とパウロは勧めます。信仰の弱い人とはこの場合、「野菜だけを食べる人」(2節)や「ある日を他の日より尊ぶ人」(5節)を意味します。野菜だけを食べる人とはベジタリアン(菜食主義者)のことではなく、「今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際にそれが偶像に備えられた肉だということが念頭から去らず、汚されると思う人」(1コリント8:7)です。またある日を他の日より尊ぶ人とはユダヤ教の律法に基づく日の吉凶にずっとこだわり続けている人を指します。いずれにしてもそのような人たちはキリストにある自由よりもこれまでの自分の生き方や社会通念にとらわれているという意味で「弱い」人たちであり、自由な人々からは批判され軽蔑されていたのです(1、3節)。
パウロはそのような「弱い人」や、反対に「強い人」のどちらが正しいとは言いません。「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきこと」(14:5)だと言います。そしてどちらの人も結局は「主のため」(6節)にしていることなのだから、互いに裁き合うのを止め、互いを侮るのも止めようではないか、と呼びかけます。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるため」(9節)だからです。そして私たちは皆、いずれは一人ひとりが神さまの前に立ち、どう生きて来たかを申し述べることになるのです。
私たちが弱いのも強いのも、生きるのも死ぬのも、みなイエスさまのためです。私たちは皆イエスさまのものなのです。互いの弱さを受け入れて裁き合うのを止め、互いに愛し合うために私たちは教会とされたのです。相手との間にイエスさまを置く、それが教会の人間関係です。