メッセージ

2019年9月22日(日)のメッセージ

十字架のみを誇る

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」
(ガラテヤの信徒への手紙6章14~15節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

人は誰でも自分の誇りとなるものを持っています。ある人は出身校を誇り、ある人は勤務する会社を誇ります。自分の才能や能力、また家系や血筋に誇りを感じる人もいます。

使徒パウロは言います。「私はイエス・キリストの十字架だけを誇ります!それ以外の誇りはありません!」これがパウロがイエスさまから示され、人々に宣べ伝えて行った「福音」です。パウロはこの福音を携えてヨーロッパに出て行き、ギリシャやローマの文化習慣の背景をもつ人々(ヘレニストたち)の間に教会ができていったのです。
ところがその後、ガラテヤの諸教会に「ほかの福音」、つまり「異なる福音」が別の指導者たちからもたらされ、教会の人々はすっかりその影響に染まってしまいました。それは、イエス・キリストの十字架を信じているだけでは足りない、ユダヤ教の伝統に従って「割礼」を受けないと本当に救われたことにはならない、という教えでした。

「割礼」、それはユダヤ人の男子が性器の包皮の一部を切り取る外科手術のことで、律法では生まれて8日目に受けることが定められていました。それはユダヤ人男子として自分たちを異邦人と区別するしるしであり、神の民であることを表す大切な文化・習慣でした。そのため他民族からユダヤ教徒に改宗した男性の場合も割礼を受けさせられたのです。

パウロがガラテヤを去った後、あとから入りこんで来たユダヤ主義者(ヘブライストたち)は主張しました。やっぱり割礼を受けてこそ本当の意味で救われるのだ、だから割礼を受けなければならないと。そして更にはあのパウロは偽使徒で私たちこそが本物の使徒だ、とパウロを攻撃したのです。それを知ってパウロがほってはおけぬと書いた手紙、それがガラテヤ書です。

ヘブライストの「福音」は3つの意味でパウロの福音とは異なっていました。
1)「自分たちと同じにならなければいけないという条件付きの救い」VS「キリストによる無条件の救い。」
2)「割礼を受けることが目に見える、正しいしるし」 VS「聖霊の自由こそが真のしるし。」
3)「ユダヤ教徒の手前、キリスト者にも割礼を義務づければ迫害を避けられる」VS「人の手前ではなく神のみ前こそ大事である。」
以上の理由で、パウロはガラテヤの諸教会の人々に、「まちがってはいけません!霊で始めたことを肉で仕上げてはいけません!(3:3)」と呼びかけたのです。

パウロは、ヘブライストたちの主張を「強い人たちの生き方」だと呼びます。自分の力を頼みとし、自分たちの行い、伝統、文化、習慣の中に救いを見ようとするからです。それに対してパウロ自身は、十字架につけられたイエスさまと共に、この世で苦難を負っている人たち、いわば「弱い人たちの生き方」、それが真に福音に生きることだと宣言します。なぜなら、十字架を通して、十字架の中に、神ご自身がなされた救いを見るからです。

先週9月16日(月・休)東京バプテスト神学校では「障がい者と教会の共生(共に生きる)」のテーマで今年の「神学校デー」を開催しました。講師である松原宏樹先生(奈良教会牧師)の講演や、障がいを持った二人の方の証しから多くのことを教えられました。健常者を「強い人」とすれば障がい者は「弱い人」です。しかし、その弱さの中に神さまは救いのみ業を見せて下さっているのです。

さて皆さんにとって誇りとは何ですか?私たちが誇るべきは十字架のキリストのみ、それ以外あってはならないとパウロは言います。割礼の有無、つまり人の行いや文化習慣、伝統の中に救いがあるのではありません。十字架と言う神の出来事の中に救いがあるのです。そして、それを信じた者が真に新しく造られた人間なのです。「このような原理に従って生きて行く人々」(6:16)こそ「新しいイスラエル」だとパウロは結んでいます。私たちもそのような生を生きる者、新しく創造された者として生きたいと願います。

前回のメッセージ