メッセージ

2019年10月6日(日)のメッセージ

利得の道かまことの命か

「これらのことを教え、勧めなさい。異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。……しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」 (テモテへの第一の手紙:6章2節c~5節、11~12節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

テモテへの手紙はいわゆる「牧会書簡」の一つです。使徒パウロが若き弟子テモテに教会の牧会上必要な事柄を指導するという内容からそう呼ばれます。研究者によればこの書はパウロの思想を受け継ぐ無名の著者が2世紀初めの一般の教会指導者の為に書いた牧会文書であるとされ、それが現代では定説だと言ってよいでしょう。

今日の箇所、また書全体において、著者は「信心」に大きな関心を寄せています。
「信心」は日本語としてはあまりキリスト教的ではない言葉です。仏教や他の宗教の言葉のようです。テモテ書において「信心」は「信仰」とは別の単語であり、意味も違います。聖書辞典を見てみましょう。

「神に対する畏敬を表す言葉。語源的には異なり、『信仰』に含まれる決断や服従の概念はない。一般的に宗教的性質を表す言葉。世俗的な欲望を捨ててひたすら神に仕えようと努める生活態度への勧めに用いられる。信仰が道徳的特質を含むようになった時代を背景とした用語である」(新教出版社「聖書辞典」)。

つまり、人が信仰を持った場合、否、与えられた場合、その信仰が神に対する敬虔な思いとなり、態度となり、行動となって表れるもの、それを信心と言っているのです。信仰者の宗教的な態度とも言えます。「信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛錬も少しは役に立ちますが、信心はこの世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです」(テモテⅠ4:7b~8)とあるとおりです。

 テモテ書の著者が「信心」を強調した背後に当時の教会の人々の状況が見えてきます。そこには「議論と口論」、「絶え間ない言い争い」があり「信心を利得の道と考える者」(5節)がいたのです。そして、「信心を利得の道と考える者」(5節)とは必ずしも金銭に関わることだけではなく、現代の教会にもあてはまることです。例えば、もし私たちが信仰生活の結果何らかの見返りや利得を求めるならそれは信心を利得の道としていることになります。こんなに奉仕したのだから、とかこんなに献金したのだから、という思いを持てば既に信心が利得になっているしるしでしょう。

信仰生活とは「得る」ことではなく「満ち足りることを知る」(6節)ことです。主イエスさまが私を愛し、私のために無条件で命を与えて下さったことを感謝し、そのイエスさまの愛に私たちも応答し、私たち自身の真心を尽くす。それが「信心」です。
ウィンウィン(Win-Win)と言う言葉をよく聞きます。双方どちらにもメリットがある関係を意味します。現代はこのウィンウィンがどのような場合でも最も理想的な関係のように考えられています。双方メリットを得るという考え方です。しかし、神さまとの関係では、私たちは神さまのご愛を徹頭徹尾受ける一方の者で、決してお返しなどできないのです。そのことに気づくこと、ここに神の前に最も基本的な方向転換(=悔い改め)と「信心」の始まりがあるのです。それが「まことの命」、「永遠の命」に生きることです。

 最近繰り返し思い浮かぶマザーテレサの言葉があります。
「人はしばしば 不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。
人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。
成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。
正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。
歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。
それでも作り続けなさい。
心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。
今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行いを続けなさい。
持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。
それでも一番いいものを分け与えなさい。」

新しい月10月を迎え、ここに述べられているように私たちは自らの「信心」を生き、「まことの命」の道を歩んでいきたいと願わされます。

前回のメッセージ