2019年10月13日(日)のメッセージ
人を分け隔てしない
「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。…わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人をあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」
(ヤコブの手紙2章1節、5節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
今日のヤコブ書は教会の中に序列を持ち込む人々への戒めの箇所です。教会の交わりはこの世の貧しい者にこそ目を留め、差別なく受け入れるよう勧告しています。
直接的には身なりの貧しい人の受け入れについて述べています。しかし、それは単に誰でも平等に接しなさいという道徳訓ではなく、2つの信仰的な理由があります。
①この世の価値観や当たり前がそのまま序列として教会の交わりに入って来ることへの抵抗。
②私たちの主イエス・キリストご自身がこの世にあってどう生きられたかの想起。
①は貧しい人の受け入れ、金持ちの特別待遇にとどまらず、「世の序列」が何の疑問もなく教会の人間関係に持ち込まれることへの戒めです。私たちはどうでしょうか、教会に新しく人が来た時、まず無意識にその人の身辺調査をしないでしょうか?どこの学校、何の仕事、どんな家庭状況、またそれらを知って、いかにもその人を知ったような気になりがちです。しかし、教会に来た時、つまり神さまの前ではその人はその人個人だ、ということです。いろいろなランク付やレベル分けは不要であるばかりでなく、有害でさえあります。神の前ではその人も一人のかけがえのない魂、(外面はどうあれ)もろく傷つきやすい一人の個人であり、神が愛してキリストを与えて下さったその一人だということをいつも覚えていたいものです。
②は主イエス・キリストがこの世にあってまさに貧しい人と共に、貧しい人の一人として生きられたことを覚えることです。神はそのような形でこの世にご自身の姿を現されたのです。ヤコブ書の背景にある教会にもそのように文字通り貧しい人が大勢いたことでしょう。その人たちは、イエスさまを身近に感じていたことでしょう。それなのに教会の他の人々がそのような人々を排除するなら、キリストを排除していることになるのです。
「人を分け隔てするなら、あなたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(9節)厳しい言葉ですが、この視座を欠くなら教会の交わりもたちまち世俗の社交クラブ、仲良しグループ、特権者の集まりに堕落してしまいます。その意味で、教会の交わりの質を表すのは表面的な和気あいあいさ(だけ)ではなく、信徒一人ひとりがいかにみ言葉に忠実に生きているか、教会は誰を隣人として共に生きようとしているかという点に尽きるのではないでしょうか。人間的なこの世の物理的な豊かさではなく、神の豊かさを反映する礼拝また教会でありたいと思います。