メッセージ

2019年10月27日(日)のメッセージ

命の重さ

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。・・兄弟に『ばか』と言う者、『愚か者』と言う者は、地獄に投げ込まれる。」
(マタイ福音書5章21節~22節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

子供から「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われたら、あなたは何と答えるか。「社会が乱れ、皆が安心して住めないから」。この答えでは、自分の安心を乱す者は抹殺しても良いということになる。戦争はその理由で始まる。一方で、「何故生きなければならないのか」という問いがある。子供が苛めなどに遭って、「死にたい」、「どうして生きなければならないのか」と問う時、あなたは何と答えるか。生きている意味が分かれば、どんなに苦しいことがあっても生きようとするだろう。生きる意味を問いに道徳教育も科学教育も答えることはできない。

もしあなたの子どもが明日あなたに尋ねるなら、/ぼくたちは何のためにこの世にいるのかと、その子が不思議に思い始めるなら、/何が大切なのか、知りたいと思うなら、/答をはぐらかしたりしないでくれ、/たとい答えるのがどんなに難しくても。 ハインツ・ルドルフ・クンツ 
ドイツの現首相アンゲラ・メルケルは「未来の(子供の)ために、人間としての尊厳を大切にする教育の前提条件は、わたしたち共通の信仰、希望、そして信仰告白です」と言って、宗教教育の大切さを語っている。(「わたしの信仰」)

聖書は、創世記1章1節で「初めに神は天地を創造された」と語る。神は目に見えないが、神が造られた宇宙、地球、人間の命に、その全能の力は明らかに現れている。創世記1章27節で「神は御自分にかたどって人を創造された」と語る。神は人間をご自分と同じ人格を持つ者として創造されたのである。人間は生物的存在であるが、それ以上である。自分の命も他人の命も「神にかたどって造られたもの」、ゆえに、誰も侵してはならない人間の命の重さがある、というのが聖書の信仰である。

天地の創造者である神は、私たち人一人に命を与え、「生きよ」と言って、この世界に送り出してくださいました。私たちはこの世界で、他の人々と良い交わりを持って生きることが期待されている。冒頭のマタイによる福音書5章21-26節は、主イエスが「人を殺してはならない」という神の戒めの真の意味を語られた個所である。自分の命であれ、他の人の命であれ、「神が与えたもの」であるから、神は人を殺す者に対して厳しい裁きされる。しかし、殺人を犯していなくても、「馬鹿」、「愚か者」と、相手の存在を否定する者は人の命を殺す者である、と主イエスは言う。主の御言葉の前に、私たちは神の裁きの前には立てない者であることを知る。しかし、感謝すべきことに、御子イエスの十字架の死による贖いによって、罪深い私たちは赦されて、生かされている。神は私たち一人ひとりに命を与え、「生きよ」と言って、この世に送り出してくださった。私たちが送り出されたこの世界は、様々な困難が満ちていて、決して生易しい世界ではない。神は、私たちがこのような困難の前で、ただ思い悩んだり、へたり込むのではなく、それらの困難を通して、命を豊かなものにしてゆくことを期待される。神は決して私たちを見捨てず、「勇気を出して、生きよ」と働きかけておられる。そのことを知るのは、「祈り」である。主イエスは繰り返し、父なる神の名を呼び、祈れ、と教えられた。

4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

祈りによって与えられる「神の平和」(フィリピ4章7節)こそ、私たちが困難を乗り越えるための生きる力である。

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