メッセージ

2019年11月3日(日)のメッセージ

どこにいるのか

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」・・・主なる神は蛇に向かって言われた。・・・お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。
(創世記3章8~9節,14節a,15節:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)

要約
「どこにいるのか」、これは罪を犯して神のみ前から隠れた人間を探し求める神の呼びかけです。神への不従順の結果、人は苦しんで生きる者となりました。しかし、主なる神はやがて人間の末から生まれる者が罪を贖うことを約束されました。イエス・キリストは人間として生まれ、私たちを探し求められます。「どこにいるのか」と。このイエスさまと共にいる時、私たちは「はい、私はここにおります」とお応えできるのです。

牧師 坂元幸子

創世記3章は「人間の堕落」について語ります。創造主なる神に命をいただき、「極めて良かった」(1:31)との祝福を受けて歩み出した人間の生が、もろくも罪の誘惑に落ちたのです。

主なる神はもともと人に「園のすべての木から取って食べなさい」(2:16)と許し、彼らが自由に生きることができる環境を整えて下さいました。ところが「善悪の知識の木」の実だけは決して食べてはならないとのたった一つの禁止を与えられたのですが、それが彼と彼女にとって罠となりました。賢くなりたい欲望とたった一つの禁止に反逆するスリルの誘惑が勝ち、許されている多くのものへの感謝を忘れました。アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べてしまいました。

ところがその結果知ったことは、自分たちが裸であるという事実だけだったのです。
何と皮肉なことでしょう。それまで何の屈託もなく軽やかに出られていた神のみ前が、突然恐ろしい、後ろめたい場所に変わりました。二人の変化を主なる神は敏感に察知されます。「どこにいるのか。」主なる神は二人を呼び求めます。そしてこの時から、主なる神は私たち人間を探し求め続けておられるのです。「どこにいるのか」と。

それでは、この創世記第3章は人間の堕落だけを述べている絶望の章なのでしょうか。いやそうではありません。むしろこの章は、主なる神の私たち人間に対する厳しい裁きと共に、それ以上に深い慈しみがにじみ出ている箇所なのです。今日はそのことを中心に宣べます。それは今日の聖書朗読の最後、15節にあります。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記3章15節)
 

ここは神さまが蛇、エバ、アダムの順でそれぞれの背信行為に対して責任を問うところです。まず蛇(誘惑する者・悪の存在)に対しては人間を罪に至らしめたことに対して生涯地を這いまわって塵を食らう存在となることを告げます。塵とは死の象徴です。そして蛇は今後人間とは敵意の関係となることを宣言します。つまり神の被造物なる人間と悪の存在の間には、ずっとこれから長い間、今にいたるまで続く敵対関係が繰り広げられることになったのです。しかし、やがて「彼」つまり「女の子孫」(=人間)が蛇の頭を砕く、つまり決定的なダメージを与える時が来る。それは人となられたキリストが悪に対する勝利をおさめることを表しているのです。一方蛇もまた女の子孫のかかとを砕きます。それが痛みの十字架を意味していると言われます。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(ガラテヤ4:4)

この聖句は、イエス・キリストが女から生まれた者、つまり一人の人間としてこの世に来られたことを述べています。神と人を隔てた罪によって神のみ前に立つことができなくなった人間に新たな回復の道筋を用意されたのは、ほかならぬ主なる神ご自身でした。「女の子孫」の中からやがて生まれくる者、それが蛇(誘惑者)との間の敵意を打ち砕く者となる。その言葉こそ、実は聖書に描かれた最初の「福音」なのです。

その意味で、「どこにいるのか」、これは罪を犯して神のみ前から隠れた人間を探し求める神の呼びかけです。神への不従順の結果、人は苦しんで生きる者となりました。しかし、主なる神はやがて人間の末から生まれる者が罪を贖うことを約束されました。イエス・キリストは人間として生まれ、私たちを探し求められます。「どこにいるのか」と。

ルカによる福音書15章でイエスさまはご自身が失われた一匹の羊を探し求める羊飼いであると言われました。また同じ章で探し求める神のイメージは無くした大切な銀貨を必死に探す女性のたとえとして語られます。そして探し求める神の姿は、反抗して家を出て行った息子を日々待ち続ける父親として愛情深く描かれます。

 「どこにいるのか」、イエスさまは今も私たちを探して続けておられます。 「さあ、私と共に主なる神のみ前に帰ろうではないか」と呼びかけながら。

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