2019年11月10日(日)のメッセージ
神の恵みに包まれて
~幼児祝福式を感謝して~
「親子は主の律法に定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤの
ナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」
(ルカによる福音書2章39~40節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
(マルコ10章14節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
「大人になったらできること」、これはゆったり豊かな大人の旅へと私たちを誘うJRのポスターの宣伝文句です。「大人になったら」、それは魅力的な言葉です。私が子どもの頃、大人がうらやましいと思ったのは、夜更かしができることでした。9時には寝なさいと言われて、その後も大人が起きているのはずるいと思ったものです。
最近は「大人買い」などという言い方もあります。たとえばお菓子をダース単位で買うこと、同じ服を色違いでたくさん購入するのが「大人買い」です。お金を持ってない子どもにはできない買い方です。「大人になったら」、それはあこがれに満ちた言葉です。
ところがイエスさまは、その逆を言われます。
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。
大人になったら、ではなく、子どものようにならなければ、なのです。
本日は幼児祝福式です。
古代イスラエル、つまり旧約聖書の世界では子どもは神さまの祝福のしるし、神さまからの嗣業(受け継ぐ財産)でした。子どもは親にとって報い(ご褒美)であり頼もしい「矢」(矢筒を満たす矢、つまり戦力、詩編127:5)でした。
しかし、これはどちらと言えば大人目線の考え方でした。大人にとって子どもがどれほど有用か、という見方です。ですから子どもがいないとその家庭は不利、神の祝福からもれたと解釈されたのです。
一方イエスさまと子どもの関係を考えると、まず第一にイエスさまご自身が一人の幼子としてこの世界に来られました。そして一人の子どもとして、マリアとヨセフのつつましい家庭のもとで育たれたのです。それを聖書は「神の恵みに包まれていた」と表現します。原文は「神の恵みがその上にあった」(聖書協会訳、新改訳、口語訳)で、新共同訳だけが「包まれていた」と訳しています。美しいイメージがある訳し方です。 では、神の恵みに包まれている、神の恵みがその上にある、とはどういうことでしょうか? 神の愛、好意、親切、思いやり、そして守りがその人と共にある、ということです。
イエスさまは神の国の宣教をされる際に、子どもをありのままで受け入れられました。弟子たちが子どもたちをうるさいと追い払った時には、子どもたちの味方になりました。
私たちが主の晩餐の度に唱和する「教会の約束」には、「神からあずかった子どもたちを、神のみ旨にそうように教え育て」とあります。これは決して親たちだけの誓約ではないのです。教会という交わり、共同体全体の誓約です。その意味で、主の教会の中で私たちは皆、子どもを、孫を、与えられ、託されているのです。そして、何より一番大事なのは、実は私たち自身が一人ひとり、いくつになっても、大人になっても、神さまの愛する子どもである、という事実です。
今日はたくさんの子どもたちとその若い親御さんたちが出席されてとてもうれしいです。子育ての毎日は本当に大変だと思います。戦いの毎日だと思います。しかし、子どもたちは親を、大人を、見ています。そして真心から愛を注ぐなら、子どもたちは必ずそれを受け止め、心も体も豊かに育つのです。
子どもをめぐる悲しすぎる出来事がいっぱい起きています。親の虐待の中で健気に「ごめんなさい・ゆるして」と書いた5才の女の子の言葉に私たちの心は張り裂けました。子どもたちは皆、神さまに愛され、慈しまれ、必要とされてこの世に生まれたのです。皆さんも、皆さんの子どもたちをはじめとしてまわりにいる一人ひとりの子どもたちに目を注いで下さい。そして神の国にあずかってゆきたいと思います。
神の国はどんな国?神の国は低くされた目で見るところです。子どもたちは身体が小さいです。だから低いところしか見えません。神の国は低いところにあるのです。高ぶっている人、高いところしか見ようとしない人は神の国が見えません。
また神の国では力の弱い者が大事にされます。世の中では力の強い者が大事にされ弱い者は軽んじられます。でもイエスさまは神の国では弱い者こそが本当の強い者だと言われます。
そして神の国は喜ぶ者の国です。子どもたちはどんな時でも喜ぶこと、楽しむことが大好きです。けんかして泣いてもしばらくすれば笑顔が戻ります。お友だちが悲しい時は互いに慰め合います。神の国は喜ぶ仲間の国です。けんかしてもすぐまた仲直りできる国です。誰とでも友だちになれる国です。
子どものようになると忘れていたことを思い出し、見えていなかったものが見えてきます。空の広さ高さ、雲の形のおもしろさ、夕焼け空の美しさ、色づいた葉っぱのきれいさ、どんぐりを拾い集める楽しさ、一つひとつが見えてきます。そして子どもの心でこの世界を見ると、何よりもイエスさまの愛のすばらしさが見えてくるのです。私を愛していて下さるイエスさま。やさしいイエスさま。見守って下さるイエスさま。このイエスさまのまなざしの中に生きることこそ、それが神さまの恵みに包まれることです。
さあ私たちもイエスさまの子どもとして、互いに愛し合いましょう。そしてイエスさまが招かれる神の国を共に生きましょう!