メッセージ

2019年11月17日(日)のメッセージ

朽ちるものから
  朽ちないものへ
~召天者記念礼拝に寄せて~

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着るとき、 次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」
(Ⅱコリント15章54~55節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

本日は召天者記念礼拝です。今年は召天者名簿に34名のお名前が記されました。そのお一人おひとりにはそれぞれの歩みのストーリーがあります。聖書が旧約聖書のアブラハムの物語を起点としているようにそれぞれのストーリーは個別かつ独自でありながら教会という信仰共同体の中でつなぎ合わされ結び合わされて、藤沢バプテスト教会という「神の民」の歴史を紡ぎ出しています。召天者記念礼拝はそのお一人おひとりに思いを寄せつつ、私たちが一つの神の家族とされていることを覚える時です。

  さて、高齢社会にあって近年「死」はかつてのようにタブー視されることはなくなりました。近年の「死」は誰にでも等しく訪れる自然な事柄であり、死を迎えることは実は生きること、つまり「生」の大事な一部分でもあることが多くの人々に共有されるようになっています。そこには、8年前、2011年に起こった東日本大震災を代表として、各地で起こっている自然災害の増加も大いに関係していることでしょう。 また、「死」を「旅立ち」と呼ぶことが一般化しました。その中で一つのきっかけは米国アカデミー賞外国語映画賞にも輝いた映画「おくりびと」(2008年国内封切)ではなかったでしょうか。管弦楽団の解散で失業したチェロ奏者が故郷の山形に戻り、旅行業者と間違えてたまたま応募した納棺師の世界に身を置くことになりました。募集の宣伝文句が「旅のお手伝い」、社名はNKエージェントだったからです。実はNKとはNo-Kan(納棺)、 つまり納棺師の仕事だったのです。

当初は妻にも友人にも理解されず葛藤する主人公でした。しかし、強引だけれど深い人生経験を持つ上司の社長の姿勢と生き方に引かれ、そして死者の家族とのさまざまな出会いを通して、納棺師の仕事の意義の深さに目を開かれて行くのです。 こうした出会いを重ねながら死ぬことは生きることと直結していると主人公は強く実感するようになります。そして別れたままだった自分の父親の納棺を手がけることで過去とも和解し、人の死に関わる納棺師の仕事に意義と誇りを見出して行くのです。「おくりびと」の英語の題は「Departures」、「出発」という意味です。この映画以来、死を「旅立ち」と称することが広く一般化しました。

それでは聖書は死を何と言っているでしょうか。新約聖書の使徒パウロの言葉に、「罪が支払う報酬は死である」(ロマ6:23)とあります。 旧約聖書の創世記には人間が土の塵から創造され、神の息を吹き入れられて生きた者となったが、創造主である神に背を向け、自分勝手な欲望と願いのままに生きようとしたことで神と人を隔てる「罪」が入りこみ、それによって、人は死すべき者、つまり「塵にすぎない者が塵に返る」(創世記3:19)ことになったと告げています。そして「死」は人を支配するものとなり、人間は誰もが「死」を恐れ、「死」の支配からは逃れられなくなったのです。「死」は人間の命の終わりだけでなく、創造主なる神との断絶を意味したのです。

 しかし、それですべてが決まってしまったのではありません。神の独り子であって世の救い主であるイエス・キリストは、十字架でご自身を私たちの罪を贖う献げものとされ、死を滅ぼし、三日目に復活されたと聖書は証言しています。それが、聖書が語る「福音」なのです。 つまり、死者は別の場所、他の世界へただ旅立ってしまったのではなく、造り主なる神のもとに召され、帰るという信仰です。この世からあの世に移るのではありません。かつて地上で生き、十字架で死なれ、しかし復活されて今は天におられるキリストの御許に死者は抱かれているとの信仰です。その死者はこの世の終末の時、神がもたらす終わりの時に「復活して朽ちない者とされる」(52節)と聖書は約束しています。

 キリストは十字架から三日目に復活され、その神さまの約束を先取りされました。人間はもはや「死」に支配される必要はなくなったのです。キリストの永遠の命がもたらされ、その新しい命が私たちのまことの希望となったのです。死はもはや終わりではありません。キリストによる永遠の命という新しい命の始まりなのです。

それゆえ聖書は宣言します。(旧約聖書からの引用です)
『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげは どこにあるのか。』」(54、55節) (参照:イザヤ25:8、ホセア13:14)

死はキリストの勝利にのみ込まれました。「死」は罪のとげを抜かれて無力化され、キリストの命が神によって勝利宣言されたのです。「死」という恐ろしい人間の敵は、今や牙を抜かれ、無力化され、もはや私たちを支配する力を持たないのです。私たちを支配するのは、つまり私たちをがっちりとつかんで離さないのは、「キリストの命」なのです。

だからこう告白することができます。
「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことをあなたがたは 知っているはずです。」(58節)

 この世における人間の労苦、生きることの悩み苦しみ、嘆き。それらはキリストにあるならば決して、決して無駄になることはありません。召天者記念礼拝は、キリストの永遠の命が死に打ち勝ったことを、共に喜び合う時でもあるのです。

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