メッセージ

2019年12月1日(日)のメッセージ

慰めの主が来られる
~アドヴェント1週目を迎えて~

「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。
 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。
 地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。」
(イザヤ書52章9~10節:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)

牧師 坂元幸子

アドヴェントクランツに1本目のキャンドルが灯りました。今年もあと4週間でイエス・キリストの降誕をお祝いするクリスマスがやって来ます。今、町々のイルミネーションはきらびやかさを競い合い、お店にはサンタクロースを主人公とした飾りつけがあふれます。しかし、この時期私たちは聖書を開き、神さまが成し遂げられた救いの出来事を思い起こします。いにしえの人々が待ち望んだ救い主の降誕を、現代の私たちの出来事として受けとめるために。

旧約聖書には戦争の記述が満ちています。それは神の名による戦争が肯定されているという意味ではなく、人間はどの時代もどの地域でも自らの力の誇示と相手を征服したいという欲望によって争いを起こし、それに勝つことに最大の誇りと意義を求めてきた存在であることを包み隠さず述べるためです。イスラエルの民も他民族への侵略・殺戮を繰り返してきました。しかしついにバビロニア帝国の強大な力によって侵略される側となり、町も神殿も破壊され、多くの血が流され、囚われの民となる悲劇を経験したのです。

バビロン捕囚はイスラエルの民の歴史上最大の試練でした。70年に渡る 屈辱的な捕囚民の生活は祖父母から親世代、親から孫世代へと続いてゆきました。そのような中、時満ちて第二イザヤの預言者は解放の知らせを 告げました。「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。…苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。」(イザヤ40:1、2) 解放と慰めの主が今、来られようとしています。良き知らせを携えて。

当時戦争終結の告知は伝令が町々村々に伝えました。山々や谷を越えて長い道のりをひたすら走り良い知らせを告げる伝令の足は泥や塵にまみれて傷つき、血が流れることも度々だったでしょう。しかしそのような足が「美しい」(52:7)と預言者は言います。磨かれた宮廷にいて傷つかない柔らかな足ではなく、解放の知らせを告げるために傷つき、泥にまみれる足こそが、慰めの知らせを告げるにふさわしい美しい足であると。イエス・キリストの降誕もまた、この美しき足の出来事なのです。

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