メッセージ

2020年3月8日(日)のメッセージ

神の業がこの人に現れるために
~受難節(レント)②東日本大震災を覚える礼拝~

「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。」
(ヨハネによる福音書9章3節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

新型肺炎コロナウィルスが猛威を振るい出して3週間目に入りました。幼小中高校は4月初めまで休校、大規模施設やイベントも軒並み自粛の中、関東圏のバプテスト諸教会では集会は礼拝のみ、または地域によっては礼拝を含む全集会休止のところも出ています。「未曽有」「想定外」が繰り返された東日本大震災からちょうど9年、私たちは再び現代社会のもろさと危うさを実感しています。今朝の礼拝は「東日本大震災を覚える礼拝」として守り、青年会から救援活動報告を聞きます。

ヨハネ9章の主イエスによる盲人のいやし、特に3節の言葉は「因果応報」、すなわち親や先祖の罪が子や孫に祟るという宗教観に真っ向から対峙します。因果応報とは「バチがあたる」という考え方です。日本でも世界のどこでも何かの障がいや不幸な出来事、災難等に遭った時、それが何の原因によるか誰のせいかということがすぐ問題にされます。受け入れ難い不幸や不具合を何とか合理化したいという人間心理のゆえでしょう。イエスさまの言葉は明解です。「誰のせいでもない。それはただ、その人に『神の業』が現れるためなのだ。」因果応報の呪縛を打ち砕く『福音』です。

ところでこの「神の業」とは一体何でしょう。物理的に目の見えない人が奇跡的に視力を回復する、そのこと自体でしょうか?そうではありません。確かにこの人は主イエスによって視力を回復します。それは周囲の人々、特に当時の宗教的権威であったファイリサイ派の人々にとっては大きな脅威となりました。イエスとは一体何者かという議論となり、次いで視力を回復した人自身への尋問となり、挙句はその人を会堂から追放するという排斥活動に発展したのです(9:24~34)。

この人は目が見えない間は宗教的権威にとって無害な存在でした。しかし主イエスによって視力を回復され、神に造られた一人の人として主イエスの出来事を証言した時、彼は共同体から危険視され排斥されました。排斥されたその人は主イエスの前に立ち、主イエスこそメシアであると告白しました(9:35~39)。この人に現れた神の業とは、主イエスを主と告白することそのものでした。

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