2020年3月15日(日)のメッセージ
あなたも離れて行きたいか
~受難節(レント)③~
「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
そこで、イエスは12人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。」
(ヨハネによる福音書6章66節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
信仰生活をおくる中で、信仰が揺らぐという経験をしたことがあるのではないでしょうか。程度の差こそあれそれは誰にでも起こりえます。それまで一生懸命礼拝に集い奉仕をしてきても、何かのきっかけでそれまでのことが一気に崩れ去るような思いになり、信仰の友や牧師、教会につまずき、ひいては信仰自体も空しく意味がないように思えてくる。そんなことが起こり得るのです。
ヨハネ6章60節には、主イエスの周りにいた弟子たちの多くが主の言葉につまずいたことが書かれています。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。これは直接的には人々が求めていた天からのパンと、イエスさまが「わたしは命のパンである」(48節)と言われたことのギャップによるものでした。その人々にしてみればイエスさまの言葉や行動が自分たちの持つメシア像に反したという失望落胆の結果でした。そして「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)のです。このような「イエスさまへの失望体験」や「教会へのつまずき体験」は私たちのだれにもいつでも起こりうることで、決して他人事ではありません。
「あなたがたも離れて行きたいか」、イエスさまは最も身近な12人の弟子たちに問われました。
多くの人々の離脱が12弟子たちにも少なからぬ不安をもたらし、彼らの信仰も揺らいでいることをイエスさまはご存知でした。その12人の中にはイスカリオテの子ユダも含まれていました。最も身近な者の中に主を敵対者の手に「引き渡す」(「裏切る」の原語)者がいるという事実。ユダは、愛憎入り混じり一筋縄ではいかない人間の揺らぐ心を代表している存在なのかもしれません。
信仰の揺らぎの中で問いかける主の言葉。それは決して「離れたい者は離れよ」と言う意味ではありません。私たちの揺らぎをご存知の主が、「わたしの愛にとどまりなさい」(15:10)、と呼びかけていて下さる招きです。その声に「あなたこそ神の聖者であるとわたしたちは信じ、また知っています」(69節)と応答し、十字架の苦難を負うイエスさまに従い行く者とされたいと願います。