メッセージ

2020年3月29日(日)のメッセージ

光のあるうちに
~受難節(レント)⑤~

イエスは言われた。「…暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子としてなるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
(ヨハネによる福音書12章36a節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

2019年度の最終の主日は礼拝休止で迎えることになりました。1年前、いや今年の初めでさえ誰がそのような展開を予測したでしょうか。私自身ほんの数週間前、礼拝休止にはきわめて否定的でした。「礼拝だけは何としても」そのような思いがあったのです。しかしその後の社会状況の展開、諸教会の対応、そして今回の執事会のメール上での協議を経て、本日の礼拝休止を教会の方針とすることになりました。皆が教会に集まって守る礼拝は正確には「礼拝式」と呼ばれます。礼拝式は休止でも、「礼拝」それ自体は決して休止にはなりません。一人ひとりが主の前に礼拝の時を持ちましょう。このような時だからこそ、一人ひとりの私たちと主ご自身との結びつきが最も重要です。

「今、わたしは心騒ぐ」(27節)とイエスさまは言われます。十字架を前にイエスさまご自身が深い葛藤と動揺を覚えておられたことが分かります。「父よ、わたしをこの時から救ってください」の一言は、これがゲッセマネの祈りと重なるイエスさまの率直な心であったことを私たちに悟らせます。しかし、このような葛藤と動揺を主ご自身が深く体験されたからこそ、この後弟子たちに「心を騒がせるな」(14:1)と、また自分を逮捕する為に武器を持って大勢でやって来た兵士たちに「わたしがナザレのイエスである」(18:5)と厳然と宣言されるに至ったのだと思います。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(32節)、この「上げられる」には3つの意味が込められます。「十字架に上げられる・死者の中から上げられる・天に上げられる」、これらはすべて、イエスさまの十字架を通してのみ成し遂げられる神さまの「栄光」の出来事でした。その言葉を聞く群衆はまったく理解することができません(29節、34節)。そしてそれは私たち自身の姿、今受難節のただ中で、コロナの恐れと不安の中にある私たち自身の姿でもあります。

恐れと不安と疑心暗鬼、また私利私欲への執着や他者への差別と排除の「暗闇」が今私たちを覆っています。その中で私たちはイエスさまという光を見上げ、光を信じ、光と共に歩くのです。

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