メッセージ

2020年4月5日(日)のメッセージ

十字架を自ら背負うキリスト
~受難節(レント)⑥:受難週を迎えて~

「こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる 『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで 彼らはイエスを十字架につけた。」
(ヨハネによる福音書19章16a〜18b節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

2020年度が始まりました。コロナウィルスは収束どころかまだまだ拡大の方向に向かっています。不安定で落ち着かない毎日です。お茶の間の人気者だった志村けんさんの急逝は衝撃的でした。

しかし、そのような中でも春はやってきます。先日ある方のお便りに、満開の山桜についてこんな一言がありました。「世の中コロナに振り回されておりますが、(山桜が)淡々と自分の役目を果たしている姿が何ともけなげで可憐です。」29日付の朝日新聞「天声人語」にもこんな記事を見つけました。長期化が予想される外出制限に処するには、「外部に出られない宇宙で1年暮らす」心構えが必要であると。それは、「とにかく日課を決めること。決まった時間に起き、決まった時間に眠ること」と同時に、「自分の使命を確かめるのが大事」というものでした。この場合「使命」とは、自分が外出しないことで人々や医療機関を守るということを意味します。「自分の役目」です。

できることが制限されているからこそ、自分のなすべきことを積極的に見つけるのは重要です。先々週、あやさんと明子さんがイースター礼拝のチラシをコピー機で印刷し、購入したばかりのブラックボードに当日の宣教題を書いて表に立ててくれました。お二人の笑顔に、いずれは必ずやって来る礼拝再開(!)の希望の先取りを見ました。やむなく礼拝休止に至った先週、高橋望さんや渡部護弥さんが協力してアップしてくれたyoutubeの礼拝ガイドはとても好評でした。あとで救数の方から喜びの声も聞きました。たとえ礼拝堂に集まれなくても、その朝「藤沢バプテスト教会の礼拝」は、確かに献げられたと感じました。できることが制限される中で私たちが今できることをする。なすべきことをする。そのために協力する。それこそイエスさまの体なる教会の姿です。

今朝は受難週です。消火礼拝のキャンドルも6本すべてが消火され、この世の暗闇が私たちを覆っています。ヨハネ福音書は、イエスさまが罪なき方であるにもかかわらず、人々のそれぞれの思惑の中でついに十字架刑に渡されたことを描いています。イエスさまは「自ら十字架を背負い」、ゴルゴタの丘へと向かわれました。ゴルゴタとは「頭蓋骨」を意味するアラム語で、丘の地形がそのような形だったことを示します。ラテン語ではカルヴァリア、英語だとカルヴァリーです。本来ご自身が背負う必要のない十字架を、イエスさまは自ら背負われました。「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(12:27)と言われ、「この世から父の元へ移る御自分の時が来た」(13:1)ことを悟られていたからです。そして、イエスさまが自ら十字架を背負われた時、それはイエスさまにとってはもはや「背負う必要のない十字架」ではなく、まさに「イエスさまだから背負わねばならない十字架」、さらには、「イエスさまが背負わねば、他の誰も決して背負うことはできない十字架」となったのです。そしてその十字架によって、私たちの救いの業が神によって成し遂げられました。

「成し遂げられた」(19:30)、この原語には「完了形受動態」が用いられています。それはつまり、イエスさまが「自ら」背負った十字架でありながら、その十字架の出来事は、それを通して神のご意志が実現された、つまり、「ここに起こっているのは、ただ人間たちの罪の仕業だけによるものではない。それにはるかに勝ることが起こっている。それは神のみ心であり、み業だ。そうして、それは今や完全に成し遂げられた」(「聖書教育」p15)とヨハネは告白しているのです。

イエスさまの十字架によって神のみ業が成し遂げられたというと、ある人は、十字架はイエスさまにとってはあらかじめわかっていた通過点の一つにすぎない、なぜなら十字架の後は復活の勝利が約束されていたのだからと言います。しかし、もし「勝利」が何の悩みも葛藤もなく実現されたものだと思ってしまうと聖書の真のメッセージを受け損なってしまいます。十字架は予定調和ではありません。結末が分かっているからドキドキしても安心して楽しめるお芝居ではないのです。

神ご自身、そのみ心を成される上でどれほど葛藤され、悩まれたかは旧約聖書にもしばしば書かれています。神は「後悔し、心を痛められる」(創世記6:6)方であり、「御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直される」(出エジプト32:14)方なのです。その神が自ら「独り子をお与えになったほどに世を愛される」(3:16)決意をされてみ子を送られたように、み子もまた、ご自身の悩みと葛藤を経た上の決断と選択によって「自ら十字架を背負われた」のです。十字架に至るまでの弟子たちを含む人間のどうしようもない罪の現実を十二分に知りつつ、それらの罪ごと十字架をただ独りで引き受けていかれた主の姿がそこにはあります。私たちの救いはこの方にあるのです。

まとめに一つ考えてみましょう。十字架にかけられるイエスさまの姿は、「犠牲の小羊」に古来たとえられてきました(イザヤ53章)。そしてキリスト者は、イエスさまに倣うがゆえに自分も自己犠牲をしなければならないとずっと教え込まれてきたのではないでしょうか。そして他の人にも同じような犠牲を強いてきたのです。「私も我慢しているのだから、あなたの我慢も当然!」と。しかし、イエスさまが既に十字架で神の業を完全に成し遂げられた以上、私たちは自己を犠牲にする必要はありません。いや、できないのです。イエスさまを愛していた弟子たちが土壇場で皆逃げ去ったのも、人間は本能的に自己防衛する生き物であり、そうせざるをえないことを示しています。そのような限界のある私たち自身の現実を知り、へりくだり、イエスさまの犠牲を尊ぶからこそ、「誰も犠牲にしてはならないし、誰の犠牲にもならない」のです(「聖書教育」青少年科p17」。

聖書が私たちに教えているのは、「自己犠牲」ではなく、「他者を愛して主体的に生きること」です。誰かの犠牲になったり誰かを犠牲にして我慢して生きるのではありません。イエスさまが成し遂げられたただ一度の十字架の死を感謝して受けることにより、イエスさまの永遠の命にあずかり、真の意味で「自ら」生きる人になるのです。それが聖書が告げる「キリストの福音」です。

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