メッセージ

2020年4月12日(日)のメッセージ

復活のキリストは後ろから
~イースターを迎えて~

「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」……イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」
(ヨハネによる福音書20章14〜15c,16節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

Happy Easter! イースターおめでとうございます!いつもであれば礼拝堂に集い、イースターの喜びを互いに分かち合っている時です。色とりどりのイースターエッグを飾り、聖歌隊は数週間の練習の成果を披露して素晴らしい礼拝を守っている頃です。でも今年はそうではありません。コロナ禍の為に世界中の教会で人々が集まってイースター礼拝を守ることができないでいるのです。

合言葉は「家にいよう(Stay at home)」です。先週の週報では「今できること、なすべきこと」として、各自が外出しないで他の人々や医療機関を守ることが私たちの「使命」だと書きました。その後すぐ、先週7日(火)に緊急事態宣言が出されました。そのため、この「使命」は少なくともあと最低4週間は守り続けられねばなりません。その後はどうなるのでしょう。まだ分かりません。分かっていることはひとつ、私たちの「今」の協力だけが「その後」を来たらせるということです。先週、イースターに先だって声明を発表したドイツのメルケル首相はこう言いました。「“その後”は必ず訪れます。心から祝うことのできるイースター休暇はまたやってきます。結果論としての素晴らしい生活が戻る時期がいつになるかは、いまの私たちの手にかかっているのです。」

そう考えると今年のイースターは私たちに今までとはちがうチャレンジを与えてくれたと言えます。今までの私たちは46日間の受難節、直前の6日間の受難週が過ぎればイースター礼拝はあたりまえにやって来ると思っていました。それはある意味「習慣」であり「年中行事」であり、日本では新年度のひとつの「儀式」のようなものでした。しかし今年はちがいます。イースターは来ますが、イースター礼拝は、信仰者一人ひとりが今まで以上に意識的に、自覚的に、主体的に守ることが求められています。単なる習慣から脱し、年中行事の一つとしてではなく、私たち一人ひとりがみ子イエス・キリストを死者の中からよみがえらされた主なる神のみ名を心から称えることを願うこと、そしてみ名を称える礼拝の心こそが私たちを教会として一つにすることを、各自が自分の体験とすることが求められているのです。合言葉は「家で礼拝しよう(Worship at home)」です。

前置きが長くなりました。今朝の聖書箇所はヨハネによる福音書20章11~18節です。既にお知らせしたように4月から礼拝宣教の聖書箇所を「聖書教育」の聖書箇所に合わせました。教会学校また祈祷会で用いる聖書箇所と同じです。今年度のテーマ「み言葉の光」に沿って、私たちがその週同じ聖書箇所を共に分かち合うことが目的です。祈祷会や教会学校に出席できない方も礼拝宣教で同じ聖書のメッセージを聴くことにより、年間を通じた共なるみ言葉の学びがなされてゆけたらいいと思います。最初は多少戸惑いもあるかもしれません。しかし来年の今頃は、「今週の聖書箇所から私はこんな気づきが与えられた。あなたは?」という会話があちこちで聞かれることを願っています。もちろん来年のイースター礼拝(21年4月4日)は礼拝堂で皆で集うことを夢見ながら!

マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。週の初めの日、朝早くまだ暗いうち、マリアは墓に行きました。十字架の前にただ立ち尽くすしかなかった自分、大切な主の弔いも十分にできなかった自分、そして何よりもこのような出来事が起こった事実を受け入れられない自分、それらの自分をすべて引きずって、マリアはせめてお墓に行かなければとの思いにかられていたのです。ところがたどり着いた墓で彼女はさらに大きな衝撃に直面しました。墓の入り口から石が取り除かれ、主の体はその中にはなかったのです!最後の「せめて」が無残にも打ち砕かれた瞬間でした。これ以上何をどう考えたらよいのでしょう。マリアは墓の外でただ泣くしかありませんでした。

「婦人よ、なぜ泣いているのか」、主の体が置かれていた場所には二人の天使がいてマリアにこう問いかけました。動転したマリアはただ「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか分かりません」と答えるのが精一杯でした。ところがまた別の声が彼女に問いかけました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか。」マリアはそれが園丁の声だと思いました。「あなたがあの方を運び去ったのですか。でしたらどこへ置いたのか教えて下さい。私があの方を引き取ります。」あまりにも大きな悲しみに圧倒されていたマリアは、その声が誰か気づきません。その時です、後ろから語りかける声を彼女は聞きました。「マリア。」思わずマリアは答えます。「ラボニ!」

ラボニ、それは「私の先生」という意味です。墓の中だけをのぞき、目の前の死と喪失しか目に入らなかったマリアは、後ろを振り向いた時、そこに立っておられる復活の主に気づきました。復活の主は彼女が見ていた方向とはまったく正反対の所からマリアに呼びかけられました。主はマリアの痛みを知り、嘆き悲しむマリアを深く愛して語りかけられたのです。私は生きていると。主の体を捜し求めて見い出せず、ただ泣くしかなかったマリアを、復活の主ご自身が見出されたのです。

「礼拝」とは神の語りかけを聴くことです。祈り、賛美、み言葉を通して、生ける主の語りかけに心を開くことです。それは自分の見ている方向からではなく、自分が見えていない「外」の方向におられる主に気づかされることです。私は先に、今年のイースター礼拝は私たち一人ひとりが置かれた場所、家で、み子イエス・キリストを死者の中からよみがえらされた主なる神のみ名を心から称えること、そしてみ名を称える礼拝の心によって私たちが教会として一つとされていることを各自が自分自身で体験することが求められていると書きました。それは単なる習慣や季節行事としてのイースター礼拝ではなく、嘆き悲しむマリアが後ろを振り向いてそこに復活の主を見出した体験にたとえることができます。マリアが復活の主を見出す、それは実は、復活の主によってマリアが見出された体験でした。どのような苦しみの中でも決して私たちを見捨てない主、私たちの心が喪失と絶望でいっぱいになって何も見えなくなっている時でさえ、私たちを見ていて下さる主。 その主の存在に気づく時、私たちは本当の意味でイースターを迎えるのです。Happy Easter!

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