2020年4月19日(日)のメッセージ
見ること、信じること、
生きること
「トマスは答えて、『わたしの主よ、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書20章28〜29節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
主日礼拝が休止となって早や4週間、先週のイースターはインターネットの無料動画サイトyoutube (ユーチューブ)に初めて藤沢バプテスト教会として礼拝宣教(メッセージ)を掲載しました。5分間のショートメッセージでしたが、見て下さった方々からは大変好評でした。その中には事情で長く教会を欠席している方も複数いて、たとえ会うことはできなくてもネットの映像でつながり合うという新しい可能性が開かれたことを実感しました。youtube掲載は一応礼拝休止期間としていますが、仮に礼拝を通常通り再開できた後もメッセージや礼拝のネット配信はできる限り続けてゆきたいと思っています。コロナ禍は確かに人類に対する恐るべき脅威であり一日も早い終息が願われます。しかし一方でコロナ問題によってこれまでの活動や枠組みが否応なく崩壊していく中、そこで同時に起こされている新しい可能性の芽があることにも気づいていたいと思います。私たちはこれまでとは違う形でつながり合い、新しい形で新しい人と出会える可能性があるのです。
さて、イースターに関わる聖書の登場人物は、今朝はトマスです。トマスは別名ディドモ(双子の意)、これまで通称「疑い深いトマス」などと呼ばれてきました。それは彼が主イエスの復活の際、自分の目で見て自分の手でさわってみなければ信じないと主張したことから来ています。しかし私は以前からこの通称はトマスの姿を正しく捉えていないと思ってきました。聖書を読む限り彼は疑い深さから信じないと言ったわけではないからです。事の次第はこうです。復活の主が最初に弟子たちに現れた時、たまたまトマスはいませんでした。その後仲間の弟子たちが口々に「私たちは主を見た」と言えば言うほどトマスは「なんで俺だけのけ者に…」と疎外感を味わったに違いありません。だから彼は(多分意地を張って)こう言ったのです、「自分でさわらなきゃ信じない!」トマスは決して復活に懐疑を持ち、復活が実証されなければ信じないと言ったわけではないはずです。トマスの言葉はまた、ある人々が考えるように不信仰から出たものでもありません。彼は私たち人間のありのままの、偽りのない姿です。誰だって自分が関与していないこと、自分だけが疎外されたような出来事には積極的にはなれません。トマスの主張は、実は私たち自身の主張なのです。
8日の後主イエスはふたたび弟子たちの前に現れました。今度はトマスも一緒です。イエスさまは弟子たちの真ん中に立って最初と同じように祝福されました。「あなたがたに平和があるように。」トマスの心をご存知の主は彼に促されました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」すなわち、あなたが望むようにしていいのだよ、という呼びかけです。しかしどうでしょう、トマスはもはや主の傷あとにさわろうとはしませんでした。いや、もうその必要さえありませんでした。なぜならトマスは「信じた」のです。イエスさまは確かに復活されて今ここにおられ、トマスを愛していて下さることを。彼は「見ないのに信じる人の幸い」を知ったのです。
トマスは自分以外の弟子仲間が復活のイエスさまと出会ったという「見える現実」の中で「見えないイエスさまの存在と愛」を求めて疎外感に悩みました。その時トマスにとって復活のイエスさまは、「あの弟子たちの主」ではあっても自分の主ではなかったのです。そんなトマスにイエスさまはご自身を現わされ、語りかけられました。見ないで信じる人は幸いであると。その時トマスは復活のイエスさまに出会い、その復活の主を自分自身の主、自分自身の神として礼拝したのです。
復活の主は見えない存在です。しかし復活の主との出会いは今も私たちと教会に起こります。主はご自身が生きておられることを私たちに「見せて」下さるからです。聖書の言葉を通し、祈りを通し、交わりを通し、聖霊の力によって、イエスさまが今も生きておられることを私たちが知る時、「礼拝」が起されます。それは礼拝堂ではもちろんのこと、どのような場所でも起こります。今の時はそれぞれの自宅で礼拝が起される時です。そして共に献げる礼拝が私たちを「教会」にします。
キリストの福音は、2000年以上もの間今日まで、「見ないのに信じる人々」によって伝えられてきました。ペトロの手紙は言います、「あなたがたは、キリスト・イエスを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉で言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(Ⅰペトロ1:8)復活の主は苦難の中にあっても私たちに真の喜びをもたらして下さる方なのです。