メッセージ

2020年4月26日(日)のメッセージ

イエスさまの食卓に招かれて

「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した際、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」
(ヨハネによる福音書21章12〜14節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

先週はアメリカで世界的な歌手たちが集まってコロナ禍の最前線で戦う医療従事者等の人々を励ますためにオンラインチャリティコンサートが行われました。「One World: Together at Home~世界はひとつ:家でいっしょに」です。アーティストたちは各自の自宅か滞在先からインターネットで参加し演奏しましたが、音が大きくズレることもなくネット上でコンサートができることに驚きました。教育の現場でもオンライン授業が急速に広まっています(東京バプテスト神学校でも!)。

また、人と人との距離を2m空けようという新しいルールが提唱されています。ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)と呼ばれます。「大切に思うからこそ、今は離れよう」がキャッチコピーです。これはただ気休めでそうするのではなく、指数関数の数式に基づく理論的根拠のある、「医薬品を使わない効果的な感染抑制の手段」だそうです。「家にいる」こともその一つです。コロナ禍はその意味で今まで知らなかったこと、あるいは気づかなったこと、考えたことや行ったことがなかったことへと私たちの目を向けさせています。積極的に関心を寄せ、学んでゆきたいと思います。

本来私たち人間はつながることを求め、つながることによって真の意味で生きる社会的な存在です。「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)と言われた創造主なる神は、人間を神との関係、また隣人との関係によって生きるように創造されました。ヨハネによる福音書15章で主イエスはご自身をまことのぶどうの木、私たちをその枝にたとえて、つながることは主からいのちと力をいただくことだと言われました。神さまとつながり互いとつながるいのちの業、それが「礼拝」です。

ヨハネによる福音書20章は主の復活後の弟子たちが、いまだ行き詰まりの中にいたことを想像させます。シモン・ペトロは主との出会いの原点であるティベリウス湖畔(ガリラヤ湖の別名)に他の6人の弟子たちと共にいました。主に従うために網を捨てたはずの彼が再び漁に出る、そこには 弟子として再び生き直すことへの迷いと逡巡が感じられます。復活の主は既にペトロたちに二度現れましたが、だからといって主を裏切り逃げてしまった自分の過去の罪が消えたわけではありません。否むしろ復活の主に出会ってかえってぎくしゃくし、自分で自分が赦せない。そんなわだかまりをペトロも他の弟子たちも抱えていたように思えます。しかも漁に出ても一匹の魚も取れず…。

「子たちよ、何か食べる物があるか」、夜明けになった頃岸辺で呼びかける人の姿がありました。弟子たちはそれが誰か分かりません。その声は言いました、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」言われたとおりにする彼ら。するとどうでしょう、実にたくさんの魚がとれたではありませんか!「主だ!」一人の弟子(=ヨハネ)が気づき、ペトロもあわてて湖に飛び込みました。他の弟子たちは魚のかかった網と共に岸辺に戻って来ました。そしてそこには主が、朝の食事の支度を整えて彼ら弟子たちを待っていたのでした。「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」(12節)

主イエスの復活記事はどれも印象的ですがこの湖畔の朝食のエピソードは他のどこにも類のないユニークかつ微笑ましい記事です。考えてみて下さい、主イエスが弟子たちのために早朝、自ら朝食の支度をされているのです!炭火をおこし、パンを用意し、魚を焼き、漁で疲れた弟子たちをねぎらい、慰め、温かくもてなしておられるのです!十字架の際蜂の子を散らすように皆逃げ去り、その後恐れて部屋に鍵をして閉じこもっていた弟子たちのために、主が自ら料理をされたのです!
弟子たちの脳裏には主と共に過ごした時間の数々が鮮やかによみがえったことでしょう。ガリラヤのカナでの婚宴、今朝と同じティベリウス湖畔で5千人以上を養われたパンと魚の食事、べタニア村でマルタ、マリア、ラザロと共に囲んだ夕食、そして十字架の直前に弟子たち一人ひとりの足を洗われた後に着いた過越の食事の席。それらすべてに共におられた主が今、弟子たちのために食事を整え、パンを備え、魚を渡して下さるのです!弟子たちのわだかまりが静かに溶けていきました。

「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」(12節)。以前と変わらず共に囲む食事。何も言わなくてもそれがイエスさまだということを彼らはみな分かっていました。彼らは今日から復活の主の弟子になるのです。

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