メッセージ

2020年5月3日(日)のメッセージ

約束されたものを待つ

「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。・・・あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
(使徒言行録1章4節、8節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

youtube配信を始めて3週間、大変よい反響を多くの方々からいただいています。中でも目立つのはご家族はもちろん友人や知り合いにも見てもらったという声が多いことです。教会に誘うのは敷居が高いですが、動画配信はその壁を軽く越えて相手のいる場所に届いていきます。動画配信の限界や問題点にも同時に考慮が必要ですが、長所を生かしていく所に可能性が生まれます。

復活されたイエスさまは40日の間弟子たちと共に生活されました。これからイエスさまは何をなさるのか、自分たちも何ができるのか、弟子たちは興味津々でイエスさまの語る「神の国」(3節)について耳を傾けました。ところが主は言われました、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい。」つまり今いる場所にとどまり神さまのなさることを待つようにとの指示でした。

外出自粛要請以来家庭でのパン作りが流行っているそうです。近隣のスーパーでも強力粉やドライイーストの棚がカラになっていました。主な理由は先が見えないコロナ禍で不安がつのる中、パン作りはこねる、発酵させる、焼くなどの過程でかかる手間の時間が必ずパンの完成に至るため、「待つ」時間が充実感として味わえ、不安解消になるとのことでした。子どものいる家庭では一緒に作り家族が喜ぶ楽しみも加わります。待つことが内容によって苦痛にも充実感にもなるのです。

イエスさまはここで父なる神さまの約束を待ちなさいと言われます。その約束とは聖霊が与えられることでした。ところが弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのはこの時ですか」(6節)と問わずにいられません。時期を知りたいじれったさ、約束を理解できないもどかしさ、待てない焦りがにじみ出ます。イエスさまは答えます。時期は神さまに属する事柄で弟子たちの知る範疇ではない。しかし聖霊が降る時、弟子たちは「エルサレムばかりでなくユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで」(8節)キリストの証人となる。それが神さまの約束の内容でした。聖霊による派遣と新たな出会い、弟子たちが想像もできなかったことでした。

エルサレムは十字架の出来事が起こった現場です。彼らが復活の主と出会い、今とどまっている場所です。そこから遣わされるユダヤは彼らにとって慣れ親しんだ「ホームグラウンド」です。しかしサマリアとなると話は違います。歴史的な経緯からユダヤ人とサマリア人の間には宗教的にも社会的にも強い緊張関係があり、とりわけユダヤ人はサマリア人を敵視・蔑視していました。しかし神さまはそのような場所にも弟子たちを聖霊によって送り出し、そこにおいて彼らがキリストの証人として用いられる出会いを用意して下さるとイエスさまは弟子たちに告げたのです。敵視・蔑視と言えばコロナウィルスは私たち人間の心の中にある差別の問題もまた浮彫にしています。医療従事者やその家族、また罹患者への差別中傷、それはウィルス以上に恐ろしい「感染」と言えます。心の中の不安や恐れが誰かを憎悪・敵視することへと転移される現象は災害時にしばしば起こりますが、戦争中などはこうした心理が悪用され特定の民族の排斥や抹殺に至ることがあります。そう言えばコロナ対策専門家が「長期戦の戦い」という表現を止めて「長丁場の対応」と言い替えた方がよいと指摘していました。戦争の比喩は必ず「敵」を必要とします。「分断」を強化します。私たちに今必要なのは敵意による分断ではなく、励まし合うこと、希望によってつながり合うことです。

聖霊の約束を待つことは私たちの願望や宿願が私たちの思う形で実現されるためではありません。神さまはご自身の自由の中で働かれ、聖霊の出来事を通して私たちを遣わされます。私たちにとってなじみのある場所だけでなく、苦手意識のある所、私たちが差別意識を持っている相手の所、さらには想像もできない未知の場所や関係の中に、神さまによる出会いが用意されています。そしてそこにおいて私たちはキリストの証人、つまり十字架と復活による神さまの愛を生きる者とされるのです。それは私たち自身が自分の殻から呼び出され境界線を広げて行くことでもあるのです。

待つことに希望を持ちましょう。神さまの業は待つことの中でなされていくのです。私たちの努力や能力で呼びよせたり起したりするのではありません。神さまの出来事はいつも自分たちの外側からやって来ます。聖霊が降る時神の業が起こります。私たち一人ひとりがみなキリストの証人となるのです。今いるエルサレムからユダヤ、サマリア、地の果てへ、限界と壁を越えて行くのです。
そのようなキリストの証人の生き方は、たとえ行動が制限されている今でもできることなのです。不安と恐れ、利己主義と差別意識に凝り固まるのではなく、あらゆる苦闘の中にある人々を憶えて祈り、できる形で感謝と愛と励ましを表す時、私たちはキリストの証人として生きているのです。

前回のメッセージ