2020年5月10日(日)のメッセージ
神と人、
人と人とをつなぐ聖霊
「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。…
人々は驚き、怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。…彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』」
(使徒言行録2章4節、7節、11節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 坂元幸子
緊急事態宣言及外出自粛要請が今月末まで延長されました。4月のイースターに続き今月31日のペンテコステ(聖霊降臨節)も礼拝休止のまま迎えます。ちなみに今日は藤沢教会では「家族の日」です。いつもの可愛いカードがないのが残念ですね!来月6月には礼拝再開できることを祈ります(日程は未定ですが)。再開する時も感染拡大防止の措置はとり続けます。手洗い・消毒・マスク着用、礼拝時間短縮、社会的的距離(2m)を保った座席、礼拝中の換気等は感染防止の「新しい生活様式」でありマナーです。聖歌隊奉仕や主の晩餐の休止も当面続きます。しかし共に礼拝に集えるなら、そのこと自体が既に大きな恵みであることを、これからも忘れずにいたいと思います。
ある教会でこんな取り組みがありました。イースター礼拝中止で使用できなかったチラシ千枚をカードにし「感謝と祈り」を自由に書き、教会の掲示板に張り出す「感謝と祈り掲示板プロジェクト」です。何かと否定的悲観的になりがちな今、神さまへの思いを祈りの言葉にし、今まで見過ごしていたあたりまえを感謝として受け取り直す。本当に素敵なイースターの祝い方だと思います。ちなみにこのプロジェクトは教会員だけでなく教会の前を通る町の人々にも呼びかけられ、参加してくれた人には手作りのポプリ入りイースターエッグがプレゼントされるというおまけ付きでした。もしあなたが参加するとしたら、どんな祈りと感謝をカードに書くことができるでしょうか。
今月から「聖書教育」では使徒言行録に入りました。以前は使徒行伝の名で知られルカ福音書のパート2と言われます。イエスさまの復活と昇天から始まり、ペンテコステの日に約束の聖霊が降って使徒たちが福音宣教に押し出され、迫害の中で地中海沿岸にイエスさまの教会が生み出されて行く歩みが記された書です。新約聖書の多くの書簡を書いたパウロの回心と召命の出来事も書かれています。それらすべてを導いているのが聖霊なる神だという意味で「聖霊行伝」とも呼ばれます。
今朝の使徒2章1~13節のペンテコステ(五旬節)の出来事は別名「教会の誕生日」とも言われます。教会はどうやってできたのでしょう?よく聞かれるのは初代牧師の○○先生が教会を「造った(始めた)」という言葉です。先達への親愛の情を感じる言葉です。しかし残念ながら聖書的な表現とは言えません。ではイエスさまが教会の「開祖」なのでしょうか?それも正しくありません。では教会は一体どうやってできたのでしょう?毎月礼拝で唱和する「教会の約束」にはこうあります。「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じます。」そうです、教会は神によって成ったもの、聖霊によって成された神の出来事であると聖書は証言しています。
私たちは神さまは三位一体の神だと信じています(藤沢バプテスト教会信仰告白の第二項目)。「父なる神・子なるキリスト・聖霊なる神」です。父なる神と子なるキリストについては先日のヨハネによる福音書にもしばしば出てきました。しかし「聖霊なる神」については礼拝の終わりに祈られる牧師の祝福派遣の祈り(祝祷)以外、耳にすることはあまりありません。従って私たちの聖霊理解も実に漠然としています。教会によっては「聖霊」を非常に強調して「聖霊さま」と敬称付きで呼ぶ所もあります。また「私は聖霊を受けた・あの人は受けていない」とあたかも聖霊を個人所有できる「物」のように考えてしまうこともあります。更には聖霊を受けることは信仰のグレードアップとなり「受けていない人」よりもワンランク上になるのだといわれたりします。しかしいずれも何だか釈然としません。それでは聖霊なる神さまは一体どのようなお方なのでしょうか?
今朝の聖書箇所で聖霊は「風が吹いて来るような」、「炎のような」、「舌のような」とたとえられています。聖霊は目には見えません。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(ヨハネ3:8)と主が言われた通りです。しかし、風が吹く時木の葉が揺れて風の存在を感じるように、聖霊の風が吹く時確かに神さまの働きがなされていることを私たちは信じることができるのです。「炎」は「霊の火」(新生讃美歌260番)です。私たちの内に灯され、燃やされて私たちを暖め強める「火」です。「舌」は「言語・言葉」です。聖霊は「一人一人の上に分かれてとどまり」、その結果「一同がほかの国々の言葉で神の偉大な業を語り出」したのです。一人ひとりに言葉が与えられ、あらゆる人に届く神さまのメッセージが語られ出す、それが聖霊の業です。それが教会の誕生です。聖霊は神と人を結び、人と人とを結ぶのです。
私たち一人ひとりの歩みに置き換えれば、私たちがイエスさまを自分自身の救い主として告白してバプテスマを受け、教会の一員とされること、それは聖霊の働きです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)とみ言葉にあるとおりです。またあなたがイエスさまを通して教会につながっていること、それは聖霊の働きです。現在のように、たとえ物理的には離れていてもそれぞれが同じ時刻、同じ思いで献げる真心からの礼拝、それは聖霊の働きです。私たちが祈りの言葉を失い、どう祈ったらよいか分からない時、言葉に表せないうめきをもって神さまに執り成して下さるのも聖霊の働きです(ローマ8:28)。憎しみのあるところに愛、争いのあるところに赦し、悲しみのあるところに喜び、絶望するところに希望をもたらすもの、それは聖霊の働きです。私たちは聖霊の働きの中に生かされ、生きているのです。