メッセージ

2020年5月24日(日)のメッセージ

散らされた人々は

「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に降って人々にキリストを宣べ伝えた。」
(使徒言行録8章4節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

エルサレムの教会に大迫害が起こりました。きっかけは執事の一人ステファノが反対者たちによって殺害されたことでした。ここで重要なのはステファノを殺した人々もまた、神を信じている人々であったということです。ステファノは主イエス・キリストのみ名によってめざましい働きをしていました。しかしそれに反発する人々が民衆、長老たち、律法学者たちを先導してステファノを捕え、最高法院に引き出したのです。彼は大祭司の前でアブラハムから始まった神の救いの業が族長たちやモーセを通して成されてきたことを聖書を駆使して解き明かし、彼らの先祖がいかに神の預言の働きを迫害してきたかを明らかにすると共に、今彼ら自身が預言の成就として来られたメシア、主イエスを拒んで十字架につけてしまった事実を堂々と宣教したのです(使徒7:1~53)。これを聞いた反対者たちは激しく怒り、ステファノを石打の刑(ほぼリンチ)で殺害してしまいます。彼らは神を信じていない人々ではなく、彼らの聖書理解と正義によって(熱心に!)神を信じる人々であり、その「熱心な信仰」が主イエスを、そしてステファノを、死に追いやったのでした。

ステファノの死。教会の人々は「彼のことを思って大変悲しみ」ました(8:2)。先週、朝日新聞の「折々のことば」に歌人の俵万智さんの一言が紹介されました。「発症者二桁に減り良いほうのニュースにカウントされる人たち」。この言葉を解説した鷲田清一(哲学者)はこう言います。「誰かの死は一つの死として、別の誰かの死と比較も計量も交換もできない。が、知らぬ間にそういう生の地表を立ち去り、死を上空から数える側に回っている。」つまり、一人の人の死が単なる数字の「1」になり、「今日は死者はたった10人だった、良かった」という発想に知らず知らずの内になってゆく、そのことに私たちは気づかなくてはならないのです。コロナ禍の中でドイツのメルケル首相が語った演説が話題です。「…これは統計の抽象的な数字ではありません。お父さんであり、おじいさんであり、お母さんであり、おばあさんであり、パートナーであり、要するに生きた人たちの話です。そして私たちは、どの命もどの人も重要とする共同体です」(3月18日)。どの命もどの人も。主イエスは一匹の羊を捜し求める神の愛と、その一人が見つかる喜びを語られました。

ステファノを殺害した人々は彼らの「聖書理解」と「信仰」のためなら自分にとって不都合な人を死に追いやることは神の正義だと信じていました。彼らはかつて先祖が預言者たちを殺害したように主イエスを、そしてステファノを、殺害したのです。ちなみにステファノの死は殉教の尊い死であり福音の進展に必要であった、という考え方はこの際、ちょっと脇に置いておきましょう。キリスト者にとって殉教が最高であり不可欠だとは決して思わないで下さい。自己犠牲も同様です。 「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩き」(8:4)ました。きっとステファノの死を心で悼みながら、またこのような大きな試練を与えられた神さまのみ心を量りかねていたことでしょう。ステファノと同時にエルサレム教会の執事に立てられ、サマリアの町に下って行ったフィリポもまた、そのような思いを抱いていただろうことが想像できます。サマリア、そこは聖書に繰り返し出て来るように、ユダヤ人とは敵対関係にある地域であり、ユダヤ人はサマリア人を蔑視し差別していました。しかし主イエスはルカ10章の「善いサマリア人」にあるように、そうしたあり方に根本的な疑問を呈し、神の愛は人間の差別意識を超えてあらゆる人に向けられ、またサマリア人であろうとユダヤ人であろうと神の愛を行う者が真の隣人であることを語られました。それを考えると、フィリポが散らされてサマリアの地に下って行き、そこで主イエスの福音を宣べ伝えたのも、彼が伝道熱心であったからという次元からだけではなく、キリストの福音がフィリポを差別意識や偏見から自由にし、サマリアの人々と真に出会うことを可能にしたと読むことができます。福音を分かち合う、福音が広がるとはこういうことではないでしょうか。サマリアで人々は「こぞって(フィリポの)話に聞き入り」、いやしの業が起こり、「町の人々は大変喜んだ」(8:8)のです。主イエスの名による喜びはユダヤ人の間だけでなく、サマリア人の間でも満ち溢れ、主のみ名がほめたたえられました。聖霊は人を蔑視や固定観念から解放し、共に生きる者へと変えます。人を数字や差別の対象としてではなく一人の生きた人として見、出会うことへと導くのです。

「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(8:4)とあります。今コロナ禍によって私たちは主日もそれぞれの場所に散らされています。しかし、その散らされた場所で福音は確かに宣べ伝えられています。家族同士でも、以前からの友人知人同士でも、聖書の言葉を介した新しい出会い、新しい関わりが生まれる時、そこで福音は宣べ伝えられています。再び礼拝堂に集い合った時、そのような互いの出会いの喜びを携え、持ち寄り合いましょう。

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