メッセージ

2020年5月31日(日)のメッセージ

神は人を分け隔てなさらない
~ペンテコステ(聖霊降臨節)に寄せて~

「『神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。ペトロが今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、声をかけて、『ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか』と尋ねた。ぺトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。『三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。』」ペトロは、その人々のところへ降りて行って、『あなたがたが探しているのはこのわたしです。どうして、ここへ来られたのですか』と言った。」
(使徒言行録10章15~21節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

本日はペンテコステ(聖霊降臨節)です。主の復活から50日、弟子たちはエルサレムのとある家の上の部屋で心を合わせて熱心に祈っていました。ちょうどユダヤ教の祭りである五旬祭が来た時、「風のような、炎のような、舌のような」姿で聖霊が一人ひとりに与えられ、彼ら彼女らはそれぞれが他国の人々に届く言葉で神の偉大な業を語り出しました(使徒2:1~13)。「聖霊降臨」の出来事です。ペンテコステとはもともと「五旬祭」そのものを意味するギリシャ語ですが、この出来事以来、「聖霊降臨」そのものがキリスト教会で「ペンテコステ」と呼ばれるようになったのです。その聖書箇所、使徒言行録2章1~13節は、今月10日の「聖書教育」で既に取り上げられました。

2020年のペンテコステの今日、私たちに与えられているのは使徒言行録10章のコルネリウスとペトロの出会いです。コルネリウスはカイサリアに住む「イタリア隊」と言われる百人部隊の長でした。彼はユダヤ人ではなく異邦人でしたが、信仰心あつく一家そろって神を畏れる祈りの人でした。このコルネリウスに神の天使が現れ、カイサリアから南に100キロ程南下したヤッファに滞在中のペトロに使者を送るようにと告げました。コルネリウスは早速「二人の召し使いと側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士」(10:7)をヤッファに送りました。彼らが17節の「コルネリウスから差し向けられた人々」で、ペトロの滞在する家を探し当ててペトロと対面したのです。

一方ペトロはこの三人の使者たちがやって来る直前の昼の12時頃、祈るために上がった屋上で不思議な体験をしました。彼は空腹で忘我状態となり(腹ペコすぎて失神!)、天から大きな布のようなものが四隅をつるされて下りて来る幻を見たのです。中に入っていたのはユダヤ人であるペトロが食べたことがないもの、つまり律法で「清くないもの」とされているものばかりでした。ペトロは当然、「主よ、とんでもない、こんな清くないもの汚れたものは食べられません」と抵抗しました。しかし主ご自身がペトロにこう語られたのです。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15節)。コルネリウスが遣わした3人の使者たちがペトロの家の門口に到着したのはその時でした。それはペトロがちょうど幻の意味について考え込んでいた最中でした。

3人の使者たちを迎え入れたペトロは翌日、彼らと共にカイサリアのコルネリオに会いに出発しました。コルネリオの家では家族を始め大勢の親類や親しい友人が集まり、ペトロの到着を待っていました。ペトロは、ユダヤ人は外国人との交際を律法で禁じられているが、神ご自身がペトロに、どんな人も清くない者とか汚れている者とか言ってはならないと示されたことを知らせ、なぜ自分が招かれたのかを尋ねました。するとコルネリウスが答えました。四日前の今ごろ午後3時の祈りの時に神の使いがコルネリウスに現れ、彼の祈りは神に聞き入れられた、彼の施しも神の前で覚えられたと告げた。そしてヤッファにいるペトロを招いて話を聞くようにと語られた、だから今、主がペトロにお命じになったことを残らず聞くためにコルネリウス一同は皆ここに集っていると。

ペトロはその時、ヤッファの家の屋上で見た不思議な幻の意味が何であったかを悟りました神が清めたものを清くないなどと言ってはならないとペトロに告げられた神は、彼を偏見や差別意識という律法の縛りから解放して、今ここでイエス・キリストの出来事をコルネリウスに告げ知らせる者として立てられたのです。まことに「神は人を分け隔てなさらない方」であり、この神が彼ら二人をイエス・キリストにあって出会わせ、福音を分かち合う者同士とされたのです。それは互いの心の中の「隔ての壁」(エフェソ2:14)が打ち壊され、変えられ、聖霊の働きによってそれぞれが新たにされる体験でした。「こうだ!」と決めつけていたことが崩されて新しい見方に気づかされる、あたりまえや決めつけから自由にされる、それによって私と誰かの関係が変えられる、それがペンテコステのもたらす体験の具体であり、神が人を分け隔てなさらないことの意味なのです。

3月29日からちょうど10週間。受難週からペンテコステに至る70日を終えて来週6月7日㈰から礼拝再開をめざします。コロナ禍が完全に終息したわけではありません。感染防止対策は続きます。これからも、礼拝に集えない状況が秋や冬に再び襲ってくることも予想されています。その意味で礼拝再開と言ってもすべてが一斉にコロナ禍前に戻るのではありません。この70日間に体験した、かつて知らなかった戸惑いや痛み、思いもよらなかった発見(良いこともそうでないことも)、そしてこれまで考えなかった新しい可能性や課題など、それらを携えて、私たちは集います。 聖霊の働きはそのような私たちを導き、集め、私たちの決めつけを打ち壊して新たにするのです。

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