メッセージ

2020年6月14日(日)のメッセージ

神の言葉が働いている

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたはそれを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」
(テサロニケⅠ 2章13節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 坂元幸子

言葉。それは人間に与えられたとても大事で重要な能力です。しかし人間の言葉は他の人を励ましもしますが反対に傷つけもし、ひどい時には死に追いやることさえあります。それが人間の言葉の弱さであり限界です。一方、神さまの言葉があります。使徒パウロがテサロニケでイエスさまの福音を伝えた時、人々はそれを人の言葉としてではなく神さまの言葉として信じ受け入れました。

神さまの言葉、それはいかなるものでしょう。神さまの言葉は私たちを「勇気づけ」「イエスさまの福音を語らせ」(2節)私たちの「心を吟味され」(4節)、私たちが神さまに在って真実であることを「証し」して(5節)下さいます。更に神さまの言葉は信仰の友たちへの「いとおしさ」を育み、仲間たちを「愛する者」(8節)として受け入れるのです。それは父母の子どもへの愛にもたとえられ(7節、11節)、教会の交わりを養います。そして神さまの言葉の力による最大の働きは十字架で殺され死んだイエスさまの復活です。「神は、この力(エネルゲイア)をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させて…すべての支配、権威、勢力、主権の上に置いた」(エフェソ1:20)のです。私たちはこの神さまの言葉の力を能動的・主体的に受けとめることが必要です。

礼拝の宣教の言葉はどこで人の言葉ではなく、神さまの言葉として聴かれるのでしょうか。宣教者が言葉巧みに上手に、おもしろく語った時でしょうか。または宣教者が人格者で徳の高い人物である時でしょうか。パウロは必ずしも温厚円満な人ではありませんでした。それでもパウロによって語られる言葉を人間の言葉としてではなく神さまの言葉としてテサロニケ教会の人々は信じ、受け入れました。そのこと自体がまさに、神の言葉が聴く者たちの中に働いているしるしでした。

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