メッセージ

2020年8月16日(日)のメッセージ

共に苦しむ神~モーセの召命

「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出すし、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる年、…へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。」
(出エジプト記 3章7節~9節a:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)

牧師 坂元幸子

本日の出エジプト記はモーセの召命の箇所です。それはミディアンのいち羊飼いとしてのモーセの日常の働きのまっただ中で起こりました。柴の間に燃え上がり決して燃え尽きない不思議な炎に目を奪われ、道をそれて近づいたモーセに主なる神が語りかけられたのです。

「モーセよ、モーセよ」と名前を呼ばれた神は、モーセが立っている場所が「聖なる土地」(5節)であると告げました。モーセは自分でも気づかぬうちに、日常の中に潜んでいる神との出会いに導かれていたのです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(6節)。当時神の顔を見た者は死ぬと信じられていました。聖なる神は人間と隔絶された畏れるべき遠い方、そのような神の像を超えて現れたのが神ご自身だったのです。

「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの声を聞き、その痛みを知った」(7節)、神はモーセにご自身が現れた理由を告げました。民の呻きと嘆きと痛みを知った神は、その低みへと降って行って自ら民を救い出し、神が約束された地に導き上ることを決意されたのです。戸惑い逡巡するモーセに神は約束されました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(12節)

しかしモーセはまだ確信が持てません。若い日イスラエルの民を助けようとしてかえって疎まれ、ファラオの元からも逃げ出す羽目となった挫折の経験、また遠いミディアンの地で羊飼いとして静かな日々をすごしてきたこの年月、そんな自分がいきなりイスラエルの指導者として民の信頼を得られるとは到底思えませんでした。民がモーセを遣わした神の名前を問うた時何と答えるべきかと尋ねると、神はご自身の名前を彼に知らせます。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)。ヘブライ語で「エヘイエ・アシェル・エヘイエ」(I am who I am)、これは「わたしはあるという者」の他、「わたしは成りたい者に成る」(「聖書教育」)とも訳せます。神が自由に存在し働かれる方であることを表します。民の痛みに共感しご自身の身に引き受けられる神が、モーセを召し出し、モーセを通してみ業を成そうとしておられるのです。日常の中に現れた神は、モーセの存在と体と時間を、神のみ業のために必要とされたのです。

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