メッセージ

2021年10月17日(日)のメッセージ

すべては主のもの

「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。 主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。 どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。 それは、潔白な手と清い心をもつ人。  むなしいものに魂を奪われることなく、 欺くものによって誓うことをしない人。」
(詩編24:1~4:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)

協力牧師 坂元幸子

先週10日伊藤真嗣牧師の就任最初の宣教を会衆席で聴きました。その時感じたこと、 それは「神さまのみ言葉を語って下さる方がいるというのは本当に素晴らしいことだ」という実感でした。講壇でみ言葉を語る務めは素晴らしい仕事です。と同時に会衆席でみ言葉を聴くことも実に素晴らしい務めであり光栄な仕事です。久しぶりのそのことを実感できました。私たちにみ言葉を語る為に伊藤牧師を送って下さった主に感謝します。

詩編は賛美歌集です。今日の24編はエルサレム神殿前で入城する際に祭司と巡礼者との間で問答形式で読まれた典礼詩編であったと「聖書教育」は紹介しています。1~2節は天地の創造主なる神への賛美、3~6節は巡礼者と祭司の問答、7~10節は巡礼者と共に神殿に入ってゆく栄光の神への賛美という構成です。そこに込められているのはこれから神殿で礼拝に臨む人々の胸躍るような喜びと神に出会う期待です。

まず巡礼者はこの世界を創造された主なる神を称え、全被造世界はこの神のものであると告白します。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のもの」との告白は主として人間をさすのですが、その人間には「この私」が含まれるのです。新生讃美歌535番「われは主のもの」にあるように、神は尽きせぬ愛をもって「私」にいのちを与え、「私」を主のものとして支えていて下さいます。たとえこの世界が混乱と絶望に満ちていても世界の真の支配者は主であり、この世界を回復なさるのも主なのです。

続く巡礼者たちと祭司たちの問答で歌われるのは「主の聖所に立つことができる人」です(聖所とはこの場合エルサレム神殿)。巡礼者たちがそのような人はだれかと問い、祭司たちが答えています。列挙される「条件」は「礼拝に備える心」でもあります。神に出会うために「私」に求められるのは「行いと思いにおいて襟を正す姿勢」であり、「精一杯の悔い改めと誠実さ」です(聖書教育)。すなわち真心からの礼拝が求められています。主イエスも言われました。「まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父(なる神)を礼拝する時がくる。今がその時である。」(ヨハネ4:23、今月の招詞)

「主の聖所に立つことができる人」とはその意味でキリストご自身です。イエス・キリストは十字架において真の「栄光の王」となり、「とこしえの門」に入られました。この主イエスを通して、またこの主イエスに伴われて、「私」は他の「私」、すなわち「私たち」として主なる神のみ前に立つのです。真心からのまことの礼拝を献げましょう。

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