2021年10月31日(日)のメッセージ
神の招きを信じる信仰
聖書箇所 (コロサイの信徒への手紙3章12〜17節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
日本バプテスト連盟常務理事 中田義直牧師
学生の頃、教会で行われた青年の集まりで参加者の一人が自分自身の信仰の悩みを語りはじめました。「聖書を読んでいると苦しくなる。説教を聞くと自分の罪が責められているように思ってしまう。クリスチャンになったときの喜びが失われていくような気がする。自分はクリスチャンになって良かったのだろうか」と。
この悩みを聞いた私たち参加者は、その悩みに答えようとしたのですが良い言葉が思い浮かびません。その理由の一つは、皆が同じ思いを持っていたということでした。聖書に記されている「奨めの言葉」に応えることが出来ない自分の現実を知っているからです。そして、もう一つの理由は、この人のように「自分に語りかけている言葉として聖書と真摯に向き合ってきただろうか」という「問い」が心の中にあったからです。ですから、「イエス様に愛されているのだから、大丈夫だよ」といった答えは、自分自身を甘やかす言葉のように思えたのです。皆が黙っていると、一人の参加者が「誰も、私は立派なクリスチャンですといって、胸を張って生きることが出来ない。かえって、私は立派なクリスチャンですって思う方が傲慢ではないか」といいました。そして、その言葉にそこにいた青年たちは皆、「そうだよ、その通りだよ」と話し出しました。その言葉に皆、ほっとしたのです。
ところが、リーダーとして参加していた宣教師の先生が私たちに「あなたたちの悩みはとてもよくわかる。私も青年の頃、同じように悩みました。そして、自分は立派なクリスチャンだと思わないことも間違いではありません。けれども、大切なことを忘れていませんか。それは、イエス様はどう思っておられるかということです」と話してくださったのです。
コロサイの教会に向けて記された手紙に「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい」と記されています。私たちは、イエス様に招かれて、教会に、そして、信仰に導かれたのです。良い信仰者であるために、自分に厳しくあることも大切です。しかし、自分で納得が出来ないからといって、信仰から離れるなら、それは招いてくださった方の「思い」を忘れてしまうことではないでしょうか。
聖書に記された御言葉と向かい合い、ご一緒に、神の思いを受け止め、そして、「招き」に応えて参りましょう。