2021年11月14日(日)のメッセージ
都もうでの歌
「主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」
(詩篇131編1-3節:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)
牧師 伊藤真嗣
本日は召天者記念礼拝です。今年も先に召された方々を覚え、この礼拝を持つことになりましたが、召天者記念礼拝というものをどう迎えささげるかということを考えなくてはならないでしょう。まず一つは、亡くなった私たちの愛する人が語ってきたことは何であったか、そのことをこの日に思い出したい、その事を思い起こし、そしてまた自らの生き方をも考える時としたいと思います。 生前の出来事、交わした会話などを思いだして、残された者同士で語り合える時としたいです。そして二つ目に、"死"とは必ず誰にでもやってくるということを考え、わたしたちはその為の備えをしっかりとしていくことが大切であるという確認をする時としたいのです。
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、 神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。 』」(ヨハネの黙示録21章3~4節)
"死"というものは、残される者にとっては、悲しみが心に残るものです。
「死は終わりではない」。ヨハネによる黙示録、聖書が語る"神の御国"とは、この地上のわたしたちのが嘆くようなものではないと言っているのです。
この地上よりも遥かにすぐれた所なのです。そこには涙もない、苦しみもない。本当に喜びと光輝く世界が皆さんのご家族やお友だちなど、亡くなった方たちひとりひとり兄弟姉妹ひとりひとりを覆っているのです。
仏教では「悟り」もしくは「諦観」(ていかん)といいます。
「あきらめ」と書きます。 その「死」というどうしようもないものを認め、受け入れ、ただそれに従うしかない。これが仏教の一つの悟りというものでしょう。 しかし聖書が語るのは、もっと積極的な死です。 わたしたちの地上の身体は、天国にはあまりにも相応しくない、につかわしくないから、この身体は栄光の身体に変えられなければならないというのです。 その為の一通過点が死だといっているのです。
本日の聖書箇所は詩篇131編ですが、この歌は主への巡礼の歌です。ユダヤ人がイスラエルに巡礼に向かう際に歌った「都に上る歌」(聖書教育タイトル)として知られます。ユダヤ人は主の都・礼拝をささげるために旅をしてきました。私たちの人生の巡礼の旅は決して順風満帆ではありません、困難な状況の中、私たちはイエス・キリストを見上げて、「死は終わりではない」神さまの永遠の命を信じて主に従って共に歩んでいきたいと思います。