2021年11月21日(日)のメッセージ
主が望まれるのは
「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」
(詩篇147編10-11節:日本聖書協会 新共同訳 旧約聖書)
協力牧師 坂元幸子
クリスマス時期になるとよく歌われる歌曲にヘンデル作曲「メサイア」のハレルヤコーラスがあります。最初の序曲はイザヤ40章1節のテノール独唱から始まり、いろいろな聖書箇所を引用しながらイエス・キリストが聖書が約束するメシア(メサイア)であることを曲全体で証ししてゆきます。キリスト到来の喜び、羊飼いなるキリストの慰め、キリストが受けた苦難、それらをたどりながら第二部最終曲のハレルヤコーラスまで来る一連の流れは感動以外の何物でもありません。1743年のロンドンでの初演では国王ジョージ二世が思わず立ち上がったという伝承もあります。以来今でも「メサイア」演奏の際はハレルヤコーラスで観客が起立するという習慣が演奏会では守られています。
2ケ月に渡って学んできた詩編の最後の部分、146編から150編にかけてはすべて「ハレル・ヤ」で始まり「ハレル・ヤ」で終わります。ここに至る145編の詩編でそれぞれ喜び、楽しみ、安心、感謝、不安、怒り、恐れなどが歌われてきましたが、ここではそのすべてが「ハレル・ヤ!」(主をほめよ)」の一言に集約されています。詩編は祈りであり賛美の歌集です。この最後の5編で主への賛美はまさに極まっているのです。
私たちには主を賛美できない時があります。悩み苦しみに襲われ不安に圧倒され、「主よ」と呼びかけることすらできない暗闇の時期があります。しかし主はその暗闇に私たちを放置される方ではありません。それでは主はどのような方か?147編はそのことを告白します。2~3節「主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集められる方」「打ち砕かれた心の人びとを癒し、その傷を包んでくださる」方です。主はまた「貧しい人々を励まし、逆らう者を地に倒される」方です(6節)。そして主は「馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない」(10節)方なのです。バビロン捕囚から解放されエルサレムに帰還し、困難を乗り越えて第二神殿を建設したイスラエルの民は、自分たちの体験を通して主が何を望まれる方であるかを身をもって体験しました。それは「主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」です。
私たちの信仰は自分の望みを主に訴えることがほとんどです。一方的に自分の願いや期待をまくしたて、主ご自身を求めようとしないのです。そして主が私たちに望まれるのは何かを知ろうともしないのです。ところが主ご自身の目は打ち砕かれ傷ついた者、貧しい者にこそ注がれます。その意味で私たちが真に主に出会うのは、否、主が私たちに出会って下さるのは、自分の限界に打ちのめされ八方ふさがりな状態に陥った時なのです。そのような弱さの中で主を求め、主の慈しみを待ち望む、主が望まれるのはそのような信仰と心です。その時私たちは心から主に向かって叫ぶのです。「ハレル・ヤ!」