メッセージ

2022年1月30日(日)のメッセージ

シリア・フェニキアにて

「イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』そこで、イエスは言われた。『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」
(マルコによる福音書7章27〜30節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

協力牧師 坂元幸子

聖書の時代、人間社会のさまざまな関係は現代では想像を絶するほど人を分け隔てしていました。職業差別、地域の文化差別、男女差別、大人と子どもの差別、ユダヤ人と外国人の差別などがたくさんの越えられない壁として人びとを分断する中で、イエス・キリストというお方は人を分け隔てなく自由に出会っていかれた方でした。しかし、今朝の聖書箇所のイエスさまはどうでしょう?差別意識丸出し、ではないのでしょうか?

シリア・フェニキア生まれのギリシャ人女性が娘から悪霊を追い出してほしいと飛び込んできた時、イエスさまの態度が冷ややかだったのは当時としては自然なことでした。明らかな異邦人しかも女性が(服装や肌の色も違っていたでしょう)、ユダヤ人の律法の教師である男性イエスさまに正面きってなれなれしく、当時神の行為とされた「いやし」を願うというのは、越えてはならない社会的、文化的、宗教的な壁を一足飛びに越えてしまうことだったからです。しかもイエスさまはここでは「だれにも知られたくない状態」、すなわちとても疲れて休みを必要としていたところでもあったのです。

娘のいやしを必死に求める彼女に与えられた答えは「まず子どもたちに十分に食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」でした。
子どもたちに十分食べさせるとは、神のめぐみはまず律法の子どもであるユダヤ人に先に与えられるべきものであり、それを奪い取って当時犬と軽蔑された異邦人にやってしまうわけにはいかないとの意味です。宗教的には実にその通り、常識的な言葉です。

イエスさまと女性を隔てる壁がますます高くなったと思えた瞬間、その壁に一気に穴をあけたのは女性の機知の一言でした(以下意訳)。「たしかにあなたはユダヤ人の教師で神の人。同胞に神のめぐみのパンを与えに来られた方です。しかし同胞があなたの子どもで外国人が犬ならば、私は子どもの足元にいる小犬なのです。子どもが食べれば食卓からはパン屑が落ち、小犬もそのおしょうばんにあずかるのではないですか?」

この箇所は、福音書の対話の中で唯一イエスさまが自ら「負けを認めた」箇所と言われます。「それほど言うなら、よろしい」とは、平たく言えば「よくぞ言った!一本取られてまいったよ!」ほどのニュアンスのある言葉です。ちなみに女性は異邦人でありながら異邦の神にではなくイエスさまに「ひれ伏し」(=礼拝し)、マルコ福音書では十二弟子以外にただ一人、イエスさまを「主」と呼ぶ人として登場しています。

イエスさまの冷ややかな態度にも卑屈にならず正面きった機知とユーモアでイエスさまにまいったと言わせたシリア・フェニキア生まれの女性。そこにはあらゆる壁を越えさせる対話の力と、相手との出会いで自ら変わることを喜ぶ神の子の姿があります。

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