メッセージ

2022年2月20日(日)のメッセージ

信仰のない時代に

「イエスは言われた。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。その子の 父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
(マルコによる福音書8章23,24節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

協力牧師 坂元幸子

本日の箇所を3つのパートで読んでみます。8章14~19節、20~27節、28~29節です。まず最初の部分、14~19節は「神のわざを行う事ができない弟子たちの姿」です。

この直前、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて高い山に登り、そこで彼らは主イエスの姿が変えられて栄光に輝くのを見ました。彼らはまた主によって復活について告げられますが、それを理解することはできませんでした(8:2~13節)。
「一同」(14節)は山を下りて他の弟子たちのところにやって来ました。するとその弟子たちは大勢の群衆に取り囲まれ律法学者たちと議論の真っ最中でした。何事かと尋ねる主イエスに群衆の中のある者が答えました。息子が霊に取りつかれて大変な身体症状に襲われる。弟子たちに霊を追い出してほしいと頼んだが彼らにはそれができなかったのです、と(14~18節)。主イエスは信仰なき彼らの有様を嘆き、心痛まれました。主イエスの弟子と言いながら人をいやすことのできない弟子たち、彼らを嘲笑し師である主イエスをもあざける律法学者たち、そしてわいわいと無責任に集団心理で集まる群衆たち、そのような人びとの姿を主イエスは「信仰なき時代」と呼ばれたのです。

「人々は息子をイエスのところに連れて来た(20節)。主イエスの促しによって若者がイエスさまのもとに連れて来られた時、悪しき霊はますます猛威をふるって彼を翻弄しました。幼い時からこのように苦しむのを見てきた父親は主イエスに向かって訴えました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」(19節)ここに隠された迷いとためらいを主イエスは見逃しませんでした。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(23節)ここに聖書が語る「信仰」が示されています。

「信仰」とはいったい何でしょうか。人が一心にイエスさま、イエスさまと念じればその熱意が困難を突破させるという意味でしょうか?それとも信じ込む力が強く宗教的な言葉を乱発すれば神の業が起きる、ということでしょうか?聖書が語る主イエスへの信仰、それは次の言葉です。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(24節)「信仰のないわたし」。そうなのです、私たちには信仰が「ない」のです。私たちの中には「信仰」はないのです。私たちの信じる力や信じたい思いが主イエスのわざを起こすのではありません。信じることのできない、あるいは信じていると称してもイエスさまに真剣に信頼しょうとしない私たちに、「信仰」はないのです。そのありのままの現実を主イエスのもとに差し出し、主イエスに助けを求め、主イエスの憐みを受ける時、私たちは初めて「信仰」をいただくのです。主イエスご自身が働くことへの信頼です。

主イエスは悪しき霊に出て行って二度とこの若者の中に入らないよう命じられました。霊は去り若者は主イエスに手を取られて立ち上がりました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」(29節)。信仰なき弟子たちは主イエスのみわざを行うことはできませんでした。私たちも同じです。主イエスに祈り、主から信仰をいただき、主ご自身が生きて働く弟子たちの群れとなろうではありませんか。

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