メッセージ

2022年2月27日(日)のメッセージ

神殿といちじくの木

「わたしの家は、すべての国の人の家と呼ばれるべきである。」
(マルコによる福音書11章17節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 伊藤真嗣

本日の箇所である、マルコ11章からイエスさまの最後の1週間、いわゆる受難の時が始まります。これはイエスさまがエルサレム入城から十字架刑のあいだに行った唯一の奇跡であり、また四福音書が記す、イエスさまの唯一の呪いの奇跡でもあります。

聖書には不思議な話しがあります。神殿で空腹を覚えたイエスさまが、イチジクの木が実を結ばないことに腹が立ち、イチジクを呪い枯らしてしまう事件が起こりました。また宮清めでは神殿で、台をひっくり返して怒りを表したイエスさま。そんな「イライラ」したイエスさまをどう見るでしょうか。私たちも日常生活の中でそんな感情を持ちがちですが、しかしイエスさまは、自らこのいちじくを枯らしてしまおうなどいう気持ちは毛頭無かったのではないかと思います。ただ、イエスさまは実をつけていないいちじくの木に、自分の懸命な伝道の働きにも関わらず、実を結ばないまま切り倒されて滅びてゆく「イスラエルの姿」が重なってしまったのです。

聖書的に考えると、伝統的に不信仰のイスラエルは、旧約聖書ではしばしば実を結ばない、いちじくの木(エルサレム神殿)に例えられます。事実、エルサレム神殿は紀元70年にローマに滅ぼされました。神殿の腐敗を神さまは嘆いて、いちじくや宮清めの事件に繋がっているのです。

「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された・・・そして、人々に教えて言われた『私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった』」。(15-17節)次の場面では、イエスさまは怒りまくり、台をひっくり返し、彼らを「強盗の巣」にしてしまったと激しく非難しました。

この物語に挟み込まれるように、宮清めの出来事が記されていることを考えると、おそらくは「期待されている実を結ばないイスラエルの民の不信仰」を嘆かれる、預言者的象徴行為と見るべきでしょう。それほど腐敗していたイスラエル社会をイエスさまは嘆いていたのです。しかし「祈る」ことによって相互に結ばれた「場所」が滅び変えられていく中で、再びイエスさまの弟子達に信仰と祈りと赦しの新しい共同体が作られていくのです。

主は真の神殿(礼拝)に招いておられます。もちろん、教会に来たからといって救われるのではなく、イエス・キリストの十字架によって救われるのです。教会に行けば救われると聖書にどこにも書かれていません。そういう点で、私たちはもう一度、自分の立ちどころをはっきりさせなくてはいけません。イエス・キリストの十字架に立つところにこそ、私たちの救いがあるのです。レントを迎えて、私たちが改めて、いちじくを枯らしたイエスさまの言葉に耳を傾けて、悔い改め、隣人への愛を持ちたいと思います。

前回のメッセージ