メッセージ

2022年3月6日(日)のメッセージ

生きている者と共に

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
(マルコによる福音書12章27節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

協力牧師 坂元幸子

この箇所は「復活についての問答」です。ここをよりよく理解するためにこの問答が起こった直前の聖書箇所から読んでみましょう。12章13節はファリサイ派、ヘロデ派の人びとがイエスさまに問答をしかけたことが書かれています。質問は「皇帝への税金を納めるか否か」(12:14)でした。彼らはエスさまの言葉じりをとらえて陥れようという下心をもって問いました(13節)。皇帝つまりこの世の権力か、神の権威か、おまえはどちらに従うのかという二者択一の問いです。これに対しイエスさまは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられ、神の領域と人の領域を分けられました。その問答の直後に、今度はサドカイ派の人びとがやってきて「復活」に対する質問を投げかけた、それが今日の箇所です。サドカイ派は復活を信じていませんでした。

彼らは自分たちの信仰の規範であるモーセの律法(申命記25:5~10)からユダヤの習慣であるレビラート婚を例にイエスさまに問いました。レビラート婚とは、兄弟の内一人が子どもを残さず死んだなら、死んだ者の妻を亡夫の兄弟がめとり、その家の名を残さねばならないという規定です。サドカイ派の人びとは、7人兄弟が次々に子を残さないまま死んだ場合、そのすべての男性の妻となった女性は復活の際には一体誰の妻になるのか、と問いました。このもっともらしい問いかけにイエスさまはこう答えました。

「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」(24節)思い違い、原語では「迷わされている・だまされている」という言葉(プラナオー)です。イエスさまは2回も同じ表現をされています(24節、27節)。「復活」とは人間の常識や理解の基準を越えたまったくの神の力であること、そして復活した者たちはもはや家を継いで名を遺すために結婚せねばならないとか、そのために子どもを産まねばならないといったこの世の決まりからは既に解放されていることを、イエスさまは明確に指摘されたのです。この世の基準や物差しで神の出来事を理解しようとしてもそれは「大変な思い違い」です。「聖書も神の力も知らない」からです。

サドカイ派は復活自体を信じていませんでした。ファリサイ派は復活は信じていましたが「死後の希望」としてだけでした。どちらの理解も「思い違いをしている」のです。なぜなら聖書のまことの理解はイエスさまの言葉から来るからです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」(27節)であるとイエスさまは言われます。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」としてモーセにご自身を現された神さまはまことの生ける神、いのちの源の方だからです。「復活」とは、その意味で、この神の力によって起こされる神の出来事であり、神に属する出来事です。そしてこの方が、今生きている神として私たちと共におられ、私たちと共に歩まれている神なのです。

先週3月2日(水)からレント(受難節)に入りました。イースターまでの46日間、十字架の苦難を通してこの神の力を現されたイエスさまを覚えて過ごしましょう。

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