メッセージ

2022年3月27日(日)のメッセージ

鶏の声を聞くたびに
~主イエスが言われた言葉を思い出す~

「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」
(マルコによる福音書14章72節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
イエスは弟子たちに言われた。・・・「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
(マルコによる福音書14章28節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

協力牧師 坂元幸子

藤沢教会の講壇に立って最初の宣教を行ったのは2009年4月5日、受難週の礼拝でした。以来13年、単純計算しても600回以上の宣教を行なってきました。喜んで語れた日、疲れ果てて語った日、いろいろな日がありました。すべてが主のめぐみです。

受難週第4主日の今朝はペトロが主エスを否認した箇所です。十字架を前に弟子たちは皆イエスさまを裏切っていきました。いつも主のそばにいて「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14:31)と豪語したペトロも、お前もあのイエスの一味だと人びとの冷たい視線を受けた時、「そんな人は知らない!」(14:72)と言ってしまったのです。しかも一度ならず。

「あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(14:30)とのイエスさまの言葉はまさしくその通りでした。ペトロは三度も必死にイエスさまとの関係を否定したのです。追い詰められたからとは言え、自分でも予期しないままに否定の言葉を繰り返し吐いてしまった自分自身のふがいなさ、なさけなさ、罪深さに、ペトロはただ「泣き崩れる」(聖書協会共同訳)しかありませんでした。

「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」、イエスさまがこう言われたのは、ペトロの人間的な弱さを指摘してあなたは意志薄弱な人物なのだと言われたわけではありません。むしろ、たとえどんなに熱心に神を信じ、自分を信じ、自分のことは自分がいちばん分かっていると言い張っても、つまるところ人間は自分自身のことさえも分かってはいない、それが人間の罪の現実なのだ、そしてその現実を避けることのできる者は一人もいない、そのようにイエスさまはおっしゃったのではないでしょうか。使徒パウロも言いました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:19-20

「あなたはわたしのことを知らないというだろう。」イエスさまの言葉は真実です。
土壇場になれば知らないと言って自己防衛するのがなさけない私たち人間の姿です。それが罪の現実です。そしてそれから逃れられる者は一人もいません。私たちはただ現実の前に泣き崩れ、おののくことしかできません。しかしその現実の直視こそが実は十字架を自分のこととして受け入れることであり、真の悔い改めに至るめぐみの道なのです。

受難節の今、真に悔い改める者が新しく造り変えられる者であることを覚えます。教会はペトロを筆頭として裏切る者の集いですが、だからこそ主の前に新しく造り変えられる希望をいただく群れでもあるのです。十字架の主のみ名のみが称えられますように。

前回のメッセージ