メッセージ

2022年4月3日(日)のメッセージ

ユダヤ人の王

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」
(マルコによる福音書8章29節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 伊藤真嗣

本日の聖書箇所はマルコによる福音書の受難物語です。マルコ15章は「夜が明けるとすぐに」(1節)という文で始まっています。木曜日の夜一晩をかけて、律法学者達や祭司達による宗教議会でので死刑が言い渡されました。

調停者ピラトはキリストの時代に最も大きな国であったローマ帝国の役人です。2節にはピラトはイエスさまに「お前がユダヤ人の王なのか」(2節)と問いました。ところがイエスさまは「それは、あなたが言っていることです」(2節)と語られました。これは直訳すれば「あなたは言う」というだけの簡単な言葉です。「あなたの言う通りだ」とこれを解釈することもできます。口語訳聖書ではここは「そのとおりである」と訳されていました。この文章の力点はむしろ「あなた」に置かれています。そのように読めばこれは「それはあなたが言うことだ。私がユダヤ人の王であるかどうか、それはあなたに問われていることなのだ」という意味になるのです。つまりイエスさまは「答えなければならないのは私ではない、私が真の王であるか否かは、あなたにこそ問われているのだ」とお語りになったのです。これはピラトへの問いかけ(信仰告白)です。そしてその後はイエスさまは「沈黙」を守り続けました。

この十字架の出来事は私たち自身に問われてもいます。当時のローマ帝国のようにロシアは領土を拡大し、ウクライナの問題でも、自分たちの正義を主張して裁き、罪もない人々が犠牲となっています。

しかし、イエスさまの十字架はそのような人間の真ん中に立っています。そんな人間のどろどろした欲望、罪の真ん中に立っています。同時にイエスさまの十字架はどんな時にも見捨てたりしません。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちが、どうしてこんなことになるのか、どうしてこんなことが起こるのかという時に、イエスさまは私たちと共にいてくれる。一緒に泣いてくれる、一緒に悲しんでくれる、一緒に悩んでくれる、そういう仕方でイエスさまは私たちのそばにいてくれます。私たちの罪も汚れも何もかも全部引き受けて、全部受けとめて共にいてくれます。

イエスさまの最後の言葉は、「エロイ・エロイ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)34節」、という言葉でした。神よどうして私を見捨てたのか、人生の中で私たちがそう叫ぶしかない時、しかしそこにもイエスさまはいる、そんなときにも私たちは一人ぼっちではない。たとえ全世界が見捨ててもイエスさまは見捨てない。それがイエスさまの約束なのです。

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