2022年7月3日(日)のメッセージ
ほめたたえられますように
「私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」
(エフェソの信徒への手紙 1章3節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 伊藤真嗣
エフェソの信徒への手紙は「教会の書」とも言われて、信仰の励ましの手紙、格言として知られています。
本日の箇所の手前の1〜2節の挨拶の後、「ほめたたえられますように」(タイトル)という礼拝と賛美の言葉から始まります。これは3節の「霊的な祝福で満たしてくださいました」(ギリシャ語ではエウロゲートス、エウロゲオー)と同じ言葉が使われています。私たちの神さまへの賛美と祝福を表しています。
「キリストにおいて」(4節)とは選びの目的と方法を示していますが、私たちはイエス・キリストによって救いに「招かれ」その体である教会もキリストのもとに「一つ」とされたのです。この素晴らしい恵みの中に入れられていることを心から感謝しましょう。たとえ外側から見た教会がどんなに小さくても、無力なものに見えても、本当はキリストに満ち満ちている素晴らしい所であることを信じましょう。
しかし一方で教会はさまざまな背景・目的で集まった罪人の集まりでもあります。いつも立派な行いばかりではなく弱さや欠けも多く抱えます。人はみな間違いや足りなさやだらしなさや傲慢や、そして罪をいっぱい持っている生き物です。
間違いも足りなさも罪も持っているその人をまるごと受け止めて大事にしていく、それこそが愛するということなんだろうと思います。私たちは相手を正すこと、相手の間違いをなくすこと、相手をいい人間に変えてあげようというようなことには割と熱心です。罪や汚ればかりをみるのでもなく、罪も汚れもしみもある相手を見ること、それをきれいにするのは私たちではありません。大切なのは、全部を受け止め大事にしていくということなのではないかと思います。イエスさまは「この人は罪人だから何とか美しくきれい、きよらかに(聖化)してあげようとは言われていません。聖書には書かれていません。イエスさまは罪人を「招いて」おられるのです。
「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22章39節)隣人を愛することはイエスさまの一番大事な命令でもあります。隣人を愛するということは、隣人を受け止めていくこと、隣人すべてをまるごと受け止めていくことでしょう。神さまは私たちの全てを受けとめてくれて、罪も汚れも全部ひっくるめて受けとめてくれています。だからあなたたちもお互いにそのようにしなさい、愛し合いなさいと言われているのだから教会はそんな風に愛し合う、全部受けとめていたわり合うところなのです。