メッセージ

2022年7月10日(日)のメッセージ

かなめ石はキリスト

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」
(エフェソの信徒への手紙 2章14節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 伊藤真嗣

「実にキリストこそ私たちの平和です」(14節)
本日の暗唱聖句で、パウロはまさに「キリスト」こそが平和であると宣言しています。8月は平和月間を迎えますが、私たちが平和を願うとき、多くの場合人間の「罪の問題」が曖昧にされているのではないでしょうか。例えばウクライナとロシアの戦争も、国家間の事情が原因かと思いますが、実はもとをただせば、人間の内側の「自己中心的な思いや考え方」が引き起こしたものだからです。「自分は正しくて、相手が間違えている」この「自己絶対化」が私たちの「罪の問題」なのです。私たちが平和を考える時にはまず、人間の「罪の問題」から考える必要があります。罪は実は人を裁いたり赦せないもので身近であり、根底に存在するものですし、人間の罪深さから始めなければなりません。そうでなければ根本的な解決にはならないからです。

「キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定からなる戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(14-15節)

イエス・キリストの十字架は平和のために私たちの敵意という隔ての壁を壊してくださいました。キリストの平和に向かう時、私たちは和解への道へと導かれます。社会の至る所で、違いが対立や争いを生み出しています。けれども違いは根本問題ではなく、争いを引き起こしていく人間の「心の罪」が問題なのです。キリストは、私たちがキリストの元に行くときに、その罪を取り除き「二つのものを一つにする」ことができるのです。

「イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。 『家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった。』(ルカによる福音書 ‭20章17節)‬‬‬‬‬
タイトルには「かなめ石はキリスト」とありますが、要石(かなめいし)とは地震にも強い、基礎となる石。礎えのことを指します。また同じような言葉として、その礎(いしずえ)がありますが、建物の土台にならなくてはならないものです。

イエスさまは十字架の上で人と天の父から捨てられました。しかしこれは主がなさったことであり、これは主が設けられた日と聖書は言っています。家を建てる者たちの見捨てた石、それがイエスさまご自身です。そしてイエスさまはわたし達の礎の石となってくださったのです。礎の石とは土台石です。ここに神さまの大きなご計画があります。

今、平和とは何か問われています。私たち藤沢教会も罪ある集まりですが、悔い改め、励まされ、愛し合いながら、真のキリストの平和を宣言して、平和の群れとして歩みましょう!

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