メッセージ

2022年8月28日(日)のメッセージ

永遠のいのちをあおぐ信仰

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
(第2コリント 4章18節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

東京バプテスト神学校・柏雅之神学生

現代社会では「持続可能性」ということが大きな課題となっています。これは地球環境、経済、社会といったさまざまな分野で問題が深刻化する中で、我々人類が存続しえるためのあり方を追求することです。そこでは、家族、地域社会、国、そして世界といったさまざまなレベルで課題がもうけられています。皆さんもどこかで「SDGs」(持続可能な開発目標)という言葉を聞いたことがあるでしょう。人類と世界がより良く存続できるようになること、それ自体はとても大切なことです。

しかし、見落としていることがないでしょうか。一番大事なこと。それは私たち人間一人一人の「いのちの持続性」です。人はたとえ全世界の持続性を手に入れたとしても、自分自身のいのちの持続性を得ることはできません。
人は誰もがこの世で得た全てをこの世に残し、一人で去らなければなりません。旧約聖書のコヘレトの手紙の冒頭ではこう述べられています。「なんという空しさ、なんという空しさ、全ては空しい。太陽の下、人は労苦するが、全ての労苦も何になろう」。そこでは、人間とはしょせん最後は虚無に膝まずく存在でしかないことが示されています。

人は毎日慌ただしく繰り返される「日常」という中に自分をどっぷりと埋没させることで、この根源的な問いから逃がれ、忘却して問題を回避しようとします(日常性への埋没)。でもそれでいいんですか?これって、何の解決にもなっていない。

人はどうしていのちを失うのか、どうすれば「永遠のいのち」が得られるのか。この根源的な問いに対して聖書は明確な答えを与えています。 神は愛するひとり子を犠牲とすることによって、御子を信ずる者の罪の代価をすべて支払い、御子のもとに買い戻してくださることで「永遠のいのち」を与えてくださいました。神様は、罪のための犠牲を、必ず必要とされるほど義なるお方です。しかし、その犠牲を、なんと御自身が備え提供されるほどに愛なるお方であります。これが福音の本質です

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