2022年11月13日(日)のメッセージ
主のものとなる
「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」
(ペトロの手紙二 3章13節:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)
牧師 伊藤真嗣
本日は召天者記念礼拝です。 毎年、先に召されたかたたちを覚え、この礼拝をもっています。召天者記念礼拝というものをどう迎え捧げるかということを考えなくてはならないでしょう。まず一つは、召されたわたしたちの愛する人が語ってきたことは何であったか、そのことをこの日に思い出したい、その事を思い起こし、そしてまた自らの生き方をも考える時としたいと思います。そして二つ目に、"死"とは必ず誰にでもやってくるということを考え、わたしたちはその為の備えをしっかりとしていくことが大切です。召天者記念礼拝を通して、生前の出来事、交わした会話などを思いだして、残された者同士で語り合える時としたいです。
「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(ヨハネの黙示録21章3~4節)
今のわたしたちの労苦は無駄ではありません。「労苦」という言葉には「くたくたになるくらいの労働」という意味があります。主のためにするどんなくたくたになるような働きも苦難も、必ず報われます。どんなに小さな愛も祈りも、心からの捧げものも、人には気がつかれないような行いも、わたしたちの労苦は決して無駄にならないのです。復活の主は、全てをご存知のお方です。復活の主を見上げながら、先に天に召された方たちを思い、そして、自分の死ということに真摯に向かい合いながら、この世を生きること、準備をすること、「主のもの」となること、そのことを今日の召天者記念礼拝にしっかり覚えていきたいと思います。