メッセージ

2023年3月5日(日)のメッセージ

受難節②「気を落とさずに」

「神は、昼も夜も叫び求めている…彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。」
(ルカによる福音書 18章‬:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 伊藤真嗣

1〜8節のイエスさまが話した「やもめと裁判官のたとえ」は、不正な裁判官でさえやもめの願いに応えるなら、まして正しい神は昼も夜も叫び求める民の祈りに応えられないはずがないことを教えています。イエスさまは「熱心に求めよ」と言われました。ドアを叩き続けるようなたとえどのように迷惑な祈りであっても、必死にくらいつく祈りは神に聞かれるのです。

確かにそんな事を言っても祈れない時はあります。苦しい中で下を向いてしまいがちです。しかし祈りは必ず聞かれます。神の言葉は必ず成就するのだと信じて生きていくために、どうしても必要なことはやはり「祈り」なのです。「祈り」とは、私たちが神に求めていくものだと考えがちです。もちろんその祈りも大事ですが、祈りの基本は、願いや求めではなく、神の言葉に従って生きていこうとする者の、直面する困難や、不安の中きら生まれてくる「叫び」なのです。

 

神は十字架につけられたイエス・キリストを死ぬまで放っておかれました。「エリエリレマサバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」イエス・キリストは腹わたをえぐられるような思いで神に向かって叫びました。この祈りは、その言葉に従った者にしか出てきません。

「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」(7‬)私たちの現実の中で、神さまの言葉と現実の間には、いつも大きな「ギャップ」があります。その「ギャップ」を私たちが超えていくところに「自分の負うべき十字架」があります。祈りとは、祈る言葉や時間が問題なのではなくて、私たちが神に対してどのような生き方をしているかが問われるのです。レントを迎えて、改めて神への深い信仰と真実の生き方からだけ、「叫びの祈り」は生まれてくるのです。

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