メッセージ

2023年3月26日(日)のメッセージ

受難節⑤「最後の晩餐」

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」
(ルカによる福音書 22章15節‬:日本聖書協会 新共同訳 新約聖書)

牧師 伊藤真嗣

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(マルコ14章22~24節)

主の晩餐を今、私たちが行なう意味、意義は何でしょうか?イエス・キリストは、十字架に渡された夜、弟子たちと最後の食事をされました。私たちは、この食事を想起するため主の晩餐を行います。この式において私たちは、イエスの十字架が私たちの罪の贖いのためであったと告白します。私たちの死ぬべきからだは、イエス・キリストの十字架と共に滅び、イエス・キリストの復活と共に新たにされました。古きものは過ぎ去り、復活のいのちに生かされたのです。

復活のいのちは、人を愛し、赦す者へとして私たちをよみがえらせます。イエス・キリストは、貧しく、虐げられている人々と食事をされました。それは、神の愛の広さと深さを示します。そこには別け隔てや差別はありません。主イエスに赦され、生かされた私たちは、パンを取り、杯を飲むにあたって「自らを吟味」しなければなりません。その愛に応えて生きているかを吟味するのです。現代の社会には未だ抑圧、不公平、貧困があります。私たちは、晩餐において、悔い改めキリストに従う者として生きることを決意します。

主イエスが用意してくださった、教えてくださった主の晩餐。それは私たちに主がなさった救いを思い起こすため、忘れないための大切な礼典です。そしてもう1つがバプテスマ。いよいよイースターに向けて、主の十字架の救い、主の愛を思いながら、新しい年も歩んでいきましょう。

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